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精神の考古学 -チュウ-より供犧について考察



第三部 精神のアフリカ的段階を開く
  9  チュウ


 人の想いの絡まり方が書かれていた。前回に引き続き、とても重要だと思われるため、抜粋しました。

チュウは簿記の精神でもあり、私もその考え方は同意である。やはり、儀礼のようなパフォーマンスだけで病気を治すことは出来ず、プラシーボ効果により、一時的に「信じる」ことで、新たな自分に気づき、自信を得ることによって不安を払拭する行動に移すことができる。そのことがここに書かれている。

 「儀礼だけでは病気を治すことなどできません。現実的な知識といっしょになって、はじめてそれは力を発揮するようになります。チュウは外国の人がよく言っているような悪魔払いのための瞑想としてできたものではありません。悪魔払いはチュウの付録のようなものにすぎません。

それにチュウでは、人間に災いをなす悪鬼や餓鬼たちは、はじめから悪をなす存在だったわけではなく、もともとは純粋な霊であったものたちだと考えられています。それが満たされない気持ちや嫉妬の感情によって、人間に対して恨みを持つようになってしまいました。

チュウではそういう悪鬼たちに限りない慈悲を抱いて、行者みずからが自分が一番大切にしている自分の身体を、彼らにあげてしまうのです。悪をなす存在を滅ぼすのではなく、まだお返しのできていなかった負債を体でお返しすることによって、彼らの心を満足させ、ふたたび純粋な霊に戻してあげようとする、これがチュウの教えです」

しかし、解せないのが、悪意が絡まり続けて大きくなってしまった悪魔に身を捧げなければならないというところなのだが、

身を捧げて、満足させても、また悪は絡まっていく、悪を完全に滅しなければ、チベットなどの局所だけではなく、あらゆる場所で供犧行為が出没する。

供犧行為は日常のすぐ隣にある。各世代の社会、社内や学校、家庭内に存在する「いじめ」のことでもあり、それらは目に見える大きな供犧行為。目に見えない所でも日常に供犧が溢れているのはお気づきだろうか。

誰かが自分の代わりに叱られていたり、グループの中で嫌な役回りを誰かがやることになればホッとします。自分の欲を満たしたいためや皆が平和に過ごすために、責任や罰を誰か一人になすりつける行為が供犧です。

民族の語り口伝にもよく出て来る、村から若い女性を一人出して悪魔にその身を捧げるなどの祭祀のような供犧が、何故古来より存在していたのか解った気がします。

改めて、精神の歴史が紐解けた。
日本では2000年前からそうなっていった。

その頃より、善悪の二元論しかなくなった。
民衆の欲を満たす代わりに、局所でその責任を果たすものを奉り上げる、祀り、祭り、政。

供養でお供え物をするならわしも、そこから来たものだと思います。

逆に、欲望を持ち、それを満たすことや、自分だけ平穏に暮らしたいなどの悪意がなければ供犧行為は要らない。

そうやって、人間の中に宿す悪意、欲望を滅することなく、因果を解消することなく、腹が真っ黒になったまま古来より人間は転生してきたのだ。

現代はその末期である。

完全悪となった魂は、来世は人間に生まれ変わることはない。自然に人口は減っていくだろうと思われる。




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