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後に残るモノ


とある本を読んでいた。


「乳児は母親と一体化するために、この想像的ファルスになろうとする。これは鏡像(乳児自身を映し出す母親)と自己の同一視であり、ナルシシスムである。「父の名」は乳児に母親のファルスであることを禁止するが、これがラカンの言う去勢(-φ)であり、想像的対象(φ)の象徴的欠如である(石田,1992)。母親も去勢されており、自分の鏡像には穴が開いていることから、母の欲望の対象はその場所で負号化され、-φの象徴で表わされ(マンク・ア・エートル)、欠如せるものとしてそれ自身の象徴になる(想像界)(ラング,1983)。知覚標識(原シニフィアン)は想像的ファルスに近いものと思われる。」

この文章、私には半分も理解できひんのです。ラカンのいう「去勢」から勉強せなあかんのです。

カタカナ表記は、曖昧に本質を見せる技法はたけている。そのため、なんとなくを捉えて欲しい場合は有効的である。

言語の内側にしか居られない人間はどのくらいいるのだろう。

日本語も標準語だけを理解出来ればいいとも思わないが、この本は専門書ということもあり、伝える人物を限定している。

使う言語により民族は限定され範囲は決まる。

研究内容の発表は自己満足以上でも以下でもない。(私は常にこの範囲内)

勉強すればするほど知識を得れば、それだけ精神性は下がり傲慢な態度となる。(という持論)

知識を得た分だけ、自身の内観が必要である。その研究・知識を所有したことにより自身はその情報を何にどう扱うのか。その時に自身は何を得て何を失うのか。

大抵の自身は知識の所有により、他者との差別化、また優位に立つことで、崇められたいという承認欲求を満たすためだろう。

これは人間個人の問題。

社会的には、それによって、
物質はより高度な成長を遂げた。

現在は二元論の選択故に、全てが二極化し、
循環が喪失している。

循環が無くなれば何かが破壊される。

何が破壊されるのか?

当たり前だが、余分なもの、不必要なもの、価値のないもの。

後に残ったものを見れば、その時、余分だったもの、価値のなかったものが何であるかわかるだろう。

極の外縁でターンし、若しくは破壊され、
真理の内部に進んでいく。(だろう)

という予測は簡単。

現象としての5Wは私には知る由もない。


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