僕の人生において、父親という存在

沖縄県内で、ミスタードーナツを4店舗                   カツ丼屋チェーンのかつさとを2店舗
運営する会社の社長。

僕の父親は俗に言う「経営者」である。

僕が育った環境は、
僕にとってはごく普通の暮らしだと思ってた。       歳を重ねるにつれてごく一般的な普通と
言われる家庭ではなかったっぽい。

小学校の頃から野球を始めた僕。                      父親は毎回と言っていいほど、
送迎、応援、手伝いをしてくれた。       最終的にベンチに座り、
スコア係をするまでになっていた。

「他の親はそんなことないのになんで父だけこんなに自由にしてるんだろう」

と不思議ではあった。

ミスドを経営する人、
いわゆる社長ということはわかってたが         なぜ、こんなに野球に来てくれているかは
わからなかった。          
高校まで地元沖縄で野球をやっていたので、
その流れは高校まで続く。


高校の夏休み、
渡嘉敷島である1週間の合宿がある。             それについて来た時はさすがに
うっとうしかったな〜、という記憶。


小学校の時は悪いことをして                        立てなくなるくらいボコボコにされたこともある。

そこら辺はある程度厳しくしてくれた父。                  殴ってくれなかったら本当にハングリーのない
デクノボウぼっちゃん”の    
できあがりだったかもしれない。
往復ビンタ100連発は今でも覚えている。

大学を行くときもお金は気にしなくて
いいから好きな所に行け、
と言われたので色々迷ったが、
野球特待生として誘われていた中で
全国的にも1番強かった、岩手県花巻市にある
「富士大学」に入学した。           

結果的に入学金、学費が全額免除だったが
それで選んだわけではない。


家庭的にお金に余裕のある生活をできていた為、                お金で選択肢を決めることがなかった。                   新卒で入った会社も、そんな感じ。

ただ、そんな生活をして行くうちに     
社会人になって以降、少々お金に苦しんだ。                 

別の記事でここら辺の細かいことは書こうと
思うが、恐らくもっと器用なやり方があっただろう。


そんな感じで父親の育て方の影響を受けつつ                 今夏、東京の三軒茶屋にBARを開業する。

少し脱線したが、自分の父が
「他の親と違っていたこと」と
「意外と救われていた言葉」を紹介したい。

まず鮮明に覚えてるのが小学生の頃からずっと
「最低でも東京には行け、日本の頂点だから」
言われ続けていた。海外を30カ国以上、旅している父ならではの言葉である。
「最低でも?最低が東京かー」とか今でも思う。               

小さい時から東京には行くと決めていた、                といよりは決めさせれていたのかもしれない。
東京洗脳だ


僕は姉2人の末っ子長男なのだが、沖縄や田舎に               よくある「長男だから」的な扱いを受けなかった。 


父には
「沖縄に帰ってきたくなければ帰ってこなくてもいい」とも言われていた。
この言葉には意外と救われていたのかもしれない。              

気づけば父には、選択肢の豊かさを
子どもの頃から与えてもらっていた。

なんだかんだで、
今の目標は東京と沖縄の2拠点で              生活できるようにすることだ。
後悔しない人生、選択肢を与え続けてくれた   両親にはとても感謝している。


なんとなく
経営者になりたいと思い                     自分がどういう風に
生きて行きたいかを真剣に考えた時

第2の人生、始まりの第一歩として
”BAR開業”を目指したわけです。

もちろん、それで全てが終わるわけじゃない。                やっとスタートラインに立つことができた。
やりたい事もたくさんある。    
父のように、自分の子どもにも自由な選択肢を
与えられる男になりたい。    

その為にも、常に学び続け、仲間と刺激し合い                最高の人生を歩んで行くことが今の目標です。


合宿にまでついてこられるのは
勘弁だから息子がスポーツをやった時は、
控えめな父でいよう。



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