#001:傘がない
井上陽水が『傘がない』という曲を発表したのは1972年のこと。
同じ年に発売された『断絶』というアルバムに収録されている曲。
高度経済成長期の終焉を翌年に控えたこの年、その予感すらなかった日常において、多くの日本人がまだまだ経済成長期が続くと思っていた頃。
■「社会」から「個人」へ
ふと、高校生の時の現代文の先生が、『傘がない』をテーマに取り上げて授業をしたことを思い出した。
その先生にどんな意図があったのか、どういう解釈をしていたのか、もはや覚えてすらいない。しかし、そんな授業があったことだけは鮮明に覚えている。
同曲の歌詞は以下の通り。
一見するとラブソングのように見えるのかもしれない。しかし、単純にそうではないと思わせるからこそ、発表から40年以上経った今でも、多くの人がその真意を確かめようとするのかもしれない。
1972年の発表だから、高度経済成長期。
日本人の生活が日増しに豊かになっていった時代。
大学進学率が上がり始めて、競争社会が少しずつ加速しはじめた時代。
こうしたことを背景に、若者たちが社会に関心を持つようになった時代。
しかし、1960年の安保闘争や全共闘運動、三島由紀夫の自殺、あさま山荘事件などを経て、「我々がどんなに頑張っても世の中は変わらない」と思うようになった。
そして、いわゆる「しらけ世代」の関心は「社会」から「個人」へ向くようになっていった。
■高まった若年層の自殺率
工業化社会から脱工業化が進み、経済的に成功する人たちがいた。
その流れに乗り遅れた人たちが持ったであろう不安。
成功したからといって、それがどこまで続くだろうかかという不安。
大なり小なり、それぞれが不安を抱え、答えが出せず、自らの命を絶つことに答えを見いだした人たちがいた時代。
1970年代初頭は、日本人の、特に若年層の自殺率が高まった時代でもあった。
因果関係があるとはいわないけど、十分に遠因となっていると考えられるのかも。
「傘がない」という歌詞は、文字通り「傘がない」という意味ではなく、
(何かしら外的要因から身を守るための防具という意味での)
「『傘』がない」
という意味であり、
「社会的不安を『雨』という言葉に置き換え、そういう不安から身を守る防具など、そもそもないのである」
と勝手に解釈する。
「君の事以外考えられなくなる」や、「君の事以外は何も見えなくなる」といった歌詞が、「しらけ」ということを比喩していて、「それはいいことだろう?」という、ある種の開き直りにも近い「しらけの自己正当化」を表す歌詞で締めているところ。
これを井上陽水が、「こんな時代だから仕方がない」と肯定しているのか、「こんな時代だからこそ、それではダメなんだ」と否定しているのか、わたくしにはわからない。
井上陽水は、歯医者を目指して受験勉強をするも、大学受験に3回失敗した。そして三浪目の時に歌手活動を始めた。
邪推だが、理想に燃えて歯医者を目指すもなることができず、あきらめの気持ちもあって、「そんな頭でっかちになったって、世の中変わるもんじゃないと思うぜ?」と思ったのかもしれまない。
理想だけでは喰っていけない。
彼なりの挫折も影響があるのだと思う。
インターネットが登場して、情報の質が玉石混淆になって、みんな頭でっかちになった。屁理屈ばかりをこねくり回して、挙げ句の果てには「自己肯定感」という言葉よろしく、開き直って謝りもしない奴が増えた。
今はそんな時代だ。
■解釈は自分の都合
高校生の頃は、「傘がない」という、その斬新なタイトルだけが面白かった。あれから長い時間を経て、世の中が少しずつ分かるようになって、今改めてこの歌の歌詞を見てみると、色々と思える。邪推も含めて。
その解釈が正しいか正しくないかはどうでも良い。他人様に決めてもらう物でもない。ただ「時を経て、同じ作品に改めて触れると、以前とは違った解釈ができる」ということを、ただただ言いたい。
そんなことは当たり前のことなのですが。
普遍的な価値観は、そう多く存在するものでもない。
「現代の価値観で過去を解釈すること」はすごく困難なことだから。
古今和歌集の仮名序の一節に、こんなのがある。
これは、紀貫之が書いたもの。現代語訳すると、
となるのかな。
井上陽水自身がどういう思いを込めて『傘がない』を作ったかは分からない。この歌を自分なりに解釈して、気持ちを穏やかにする糧とした人は少なからずいたのかもしれない。
歌というのは、
「自分なりに(都合の良いように)解釈できる」
ものだから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?