私の先祖は明智光秀と判明した過程。 その5


戸籍を調査するのと同時に、なにやら私の先祖が関わっていたらしい島原の乱について勉強しはじめました。

島原の乱。
学校で歴史の時間に大まかなことは習いましたが
それ以上の詳しいことは知りませんでした。

関ヶ原の戦いから約50年後の徳川家光の時代。
九州島原と天草地方で、キリシタンたちが領主の
圧政と宗教弾圧に対して起こした一揆。
一揆軍のリーダーは天草四郎17歳。
数ヶ月にわたった反乱は一揆軍が立てこもった原城陥落により終息。

だいたいこんな内容で記憶していました。


以前書いたように、私が家系調査を始めるきっかけとなったのは斎藤一ツアーです。
その時ツアー主催者A氏がこう話されました。

「鈴木家(斎藤一実家の主家)のご先祖は、島原の乱に関わった」

そこで、まず鈴木家について調べることにしました。


鈴木家は旗本であることがわかっていたので、図書館で武鑑を閲覧しました。
歴史好きの間では知られたことですが、武鑑というのは江戸時代に出版された武士の名簿です。
他に、それぞれの藩で作られた分限帳という藩士名簿もあります。
現代では旗本や大名の情報をまとめた辞典も出版されていますので、武士に関して調べるのにとても便利です。


そうやって調べた鈴木家というのはなかなかの家でした。

鈴木家は三河から家康に従って江戸へやって来た
三河武士の家です。


この鈴木家の正三(しょうさん)という人は、関ヶ原合戦や大坂の陣で武功をたてて旗本になりましたが、その後出家して僧侶になりました。

旗本が出家することは禁止されていたにも関わらず、徳川秀忠が温情をかけてくれたお陰で正三は罰されることなく出家が許されました。


鈴木家の家督は正三の弟・重成が継ぎました。
重成は天草・島原の乱で老中松平信綱に従い出陣。
乱終息後は天草代官となり善政を布きました。
また、戦乱により乱れた人心を鎮めるため、兄・正三を天草に呼び寄せ、キリシタンの教えが広まっていたこの地方の人々を仏教に改宗させてゆきました。


重成は名代官として領民に慕われ、死後は領内各地に鈴木神社が建てられました。
現在も天草地方に数多くの鈴木神社が残り、地元では「鈴木さま」と崇められています。

鈴木正三・重成に関しては現在もその威徳を偲ぶ
人たちにより顕彰会が運営され、知行地の足助(現・愛知県豊田市)には鈴木重成記念館もあります。

斎藤一の実父・山口右助は明石藩出身で、後に江戸へ出て御家人株を買ったとされますが、鈴木家に公用人として仕えていました。
ハジメの兄・喜間多(廣明)も父と同じく鈴木家の公用人となります。
幕末の混乱期には喜間多が足助に来ており、その時の記録が残されています。
この足助に残る文書はどの斎藤一研究書にも載っていない、恐らく現在もほとんど知られていないものです。

貴重な史料を目にし、そして鈴木家類代のお墓にもお参りすることができ、足助行きは思い出深いものとなりました。
連れて行ってくださったA氏もすでに他界されており、当たり前ですが歴史とは時の流れなんだなぁと感じます。

そして島原の乱を調べるうちに、とても重要な人物がいることを知りました。


その人の名は三宅重利(藤兵衛)といいます。

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