私の先祖は明智光秀と判明した過程。 その6

島原の乱について調べを進めていく過程で浮かび上がってきた明智光秀と関係があるという人物、三宅重利(藤兵衛)。
その人が何者なのか最初はまったく知りませんでしたが、明智光秀の名前にハッと胸を突かれた思いがしました。
それは私の家の家紋が桔梗紋だったからです。

桔梗紋といえば、もちろん明智光秀の家紋。

島原 三宅 明智光秀

島原の乱と鈴木家を調べていたはずなのに、ここで猛然と明智光秀のことが気になりはじめました。

島原の乱(島原天草一揆)は明智光秀が生きた時代から50年も後の事件です。
これがいったいどう繋がるのでしょう。

私は昔から明智光秀のことが嫌いではありませんでした。
いえ、実は好きな人物といってもいいほどの興味を持っていました。
それと同じくらい織田信長にも興味があり、とくに信長と宗教の関係についてオカルト的な部分にとても興味がありました。

私がはじめて明智光秀を意識したのは小学5年生の時でした。

その年、林間学校で高野山へ行きました。
高野山奥の院には明智光秀の墓というものがあります。
その古い五輪塔式のお墓のお腹にあたる部分には
大きくヒビが入っています。
墓前で僧侶が私たち小学生にむかい、説明を始めました。

明智光秀は主君に対して謀反を起こしたので、その罰を受けてお墓にヒビが入っているという内容の話でした。

私はその時とても憤りました。
亡くなってからもそんな風に云われるなんてヒドイ理不尽な話なんだ!と感じました。
同級生のみんなは神妙な顔をして聞いていましたが、私はなぜだかわからないけれどもすごく腹が立ち、同時に悲しい気持ちになったのをはっきりと覚えています。

それまで明智光秀や本能寺の変、信長について特に詳しいわけでも思い入れがあったわけでもないただの小学生が、なぜそんなふうに思ったのかはわかりません。
とにかくその時から私の心の中に、明智光秀のことがくっきりと刻み込まれました。

といってもそれから特に光秀に関して勉強するわけでもなくふだんはすっかり忘れていたのですが、その日以来、いくら世間で光秀が謀反人だとそしられようと、私が光秀に感じた好意はずっと変わらず続いたのでした。
いま思い出すと不思議な話です。

そしてこの後長い時が経ち、約10年前から家系調査を始めて以来さらに不思議な出来事が次々と起こりはじめました。
まるで何かの封印を解いてしまったかのように、それとも何か見えないチカラに導かれるかのように、すべてのものが繋がっていきました。


土地の不思議

家系調査を始めてからは、その関係の史跡に眼が行くようになりました。
すると、私の生活圏内はご先祖様ゆかりの場所だったということがわかりました。

私は神戸で生まれ、幼い頃に大阪の北部に引越してきました。
現在は自宅から近い府内の北摂エリアで勤めていますが、先祖調査を始めた頃は大阪市内の会社に勤務していました。

その会社への通勤途中の駅には細川家の大坂菩提寺である崇禅寺(そうぜんじ)という寺院があり、そこには明智光秀の娘・細川ガラシャのお墓があります。
大坂城の近くにあった細川屋敷で亡くなったガラシャとその家臣らの遺骨をイエズス会宣教師オルガンティノが掘り起こし、ガラシャの夫細川忠興により崇禅寺に納められたとされています。

勤めていた会社から徒歩10分ほど離れた場所が、その細川家の大坂屋敷があった土地です。
旧町名は細川越中守忠興にちなみ、越中町といいました。
跡地には細川屋敷の台所にあったという井戸(越中井)が残り、そのすぐ隣の敷地には、ガラシャと高山右近の像が祭壇に掲げられたカトリックの大聖堂が建っています。

勤務していた会社のある地名は法円坂というのですが、以前は鈴木町という町名でした。
江戸期にはここに鈴木代官の屋敷があったからです。

鈴木代官とは、私が調べているあの鈴木重成のことです。
鈴木重成は天草と大坂、両方の代官職に就き、九州と大坂をいったりきたりの生活をしていました。
その大坂屋敷のあった土地が、明治12年に法円坂と改称されるまで鈴木町と呼ばれていました。

また、オフィスのすぐ眼の前には国立大阪医療センターがあり、その敷地の東南角には、この地で亡くなった大村益次郎の巨大な石碑が建てられています。
明治2年、京都で不平士族から襲撃された益次郎は、京都では適切な治療が受けられないため大坂の病院へ移送されてきましたが、すでに手遅れでした。
わたしは毎日窓からマスジの石碑を見ながら働いていました。
マスジは明智氏とはなんの関係もありませんが、
大村家の家紋は「丸に桔梗」です。
これは一体なんの偶然でしょうか。

大阪医療センターの敷地というのは、明治2年に
創設された大坂府医学校病院があった場所であり、この医学校が発展し、後に大阪大学医学部となりました。
大坂府医学校には、緒方洪庵の次男・緒方惟準、
オランダ人医師ボードウィンらが勤務していました。

この病院関係者たちとわが家系との繋がりを後に詳しく知って、大変驚くことになります。

過去に遡る家系調査は400年の時を超え、現代へと繋がり広がっていくのでした。



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