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“養殖物”の限界

一見して穏やかな人の中にも2種類ある。生まれ持った性質が清穆な天然物と、激しい気性や不寛容な部分を持ちながらもそれを衆目に晒さないように注意を払っている養殖物とがいるのだ。

わたしはあきらかな後者で、10〜11歳頃に自らの激しい気性と独善的言動で散々痛い目に遭ったため性格がドン底レヴェルに暗くなり、回復に10年近く要した。その経験から、周囲には可能なかぎり優しく、穏やかに接するようになった。ありのままの自分を見せることがさも良きことかのように言われているが、わたしはあるがままに振る舞ったら人を不快にさせるばかりか傷つけるし、また傷つけたまま平然としていられるほど大物にも畜生にもなれないので、大変ストレスが溜まるのだった。美輪明宏さんが、「ありのままの私を愛せと言うのは、畑から抜いたばかりの泥だらけの大根をそのまま食えと言うのと同じ」と言っていたが、これぞまさに肯綮に中る。

天然物か養殖物かは、高負荷が掛かったときにこそ知れる。よくあるケースでいうと、仕事などで疲弊したときだ。どれだけ考えても上手く片付かない案件やどうしようもない人間関係にぶつかったとき、人は馬脚を表す。わたしで言えばこのnoteや紙のノートに書き散らかしたり、友人や夫に胸の内を明かしたりする。そういうときの自分というのは非常に汚い言葉を使って口をきわめて罵るので、本性見たり、という気分になる。わたしは嫌な人間だなあ、と思う。

ただわたしの長所は(何度も同じことを書いてしまっているが)、それを無闇矢鱈と吐き散らかさないところであると思う。書いて自分の中で収めるか、それでも無理なら信用の置ける人に明かす程度で、基本的に職場で不特定多数の人に聞こえる場所で誰かを悪く言うことはない。本音を言えば、そういうことをすると自分の評価が下がるから言わないだけだが、結果として嫌な思いをする人は減る。これくらいが、養殖物の限界と思う。

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