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内に向かう、わたしの“罪”

きのう、話の流れで七つの大罪の話をしたんですよ。

そこで、「わたしの中にあるのは傲慢と嫉妬と暴食と怠惰である」「色欲と強欲と憤怒は殆ど現れない」というようなことを書いたんですが、それで気がついたんです。「わたしの“罪”、内向的じゃね?」と。色欲も強欲も憤怒も、外側に向かう力じゃないですか。外側に発露することで満ち足りるというか。自分だけで収まる問題じゃなく、他者の存在を感じる“罪”だと思う。傲慢はちょっと外側に向かう感じはあるけど積極的ではないし、嫉妬なんて自分の内面だけの話だし(そこから嫉妬源を貶めようとしたら外側に向かっていくけど、その感情自体は内向的だ)、暴食も自分の中で完結するし、怠惰なんてその最たるものだ。いやあ性格、出ますね。あたりまえだけど。

つまりわたしの良さは、マイナスの感情をできるかぎり公に出さないということだと思うんですけども、これも良し悪しで。人間なんで、どうしても苦手だったり嫌いな奴って出てくるじゃないですか。そういう人にも優しくしてると、めちゃくちゃ疲れるんですよね。だから自分を守るためにそういう人たちに冷たくすると、それを非難される率が高いわけです。ジャイアン理論の逆ね。普段乱暴な奴が優しくすると評価上がるけど、普段感じの良い奴がちょっと嫌なことすると評価が下がるっていう。

それで悩むこともあるんですけど今はもう、「そんなもん知らんのでわたしの好きにするわ」と思っています。評価下げたきゃ好きにすればいい。そもそも好き嫌いで態度変える人間なんて掃いて捨てるほどいる。なんでわたしがちょっとそうしただけで非難されて(言い方が無愛想になるくらいで、理不尽に仕事押し付けたり頼まれた仕事を断ったりもしてない)、非難されるからってやめなきゃいかんのや。わたしの心は犠牲にされていいってか。そんな考え許さんぞ。これからのわたしは、わたしを尊重してくれる人しか尊重せんからな。わたしを蔑んでるくせに、困ったときはなんも言わなくても助けてもらえると思うなんてムシがいいんだよ。助けてって言われたら助けるけど、言わないなら絶対助けない。これも、全部わたしの胸先三寸。

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