不足感は恐怖を、足るを知ると満足感が生まれる。
欲深さは人間であるためのものなのか、目の前にあるものを手に取るとまた次のものが欲しくなる。それが人間だ。野生の動物は空腹の時だけ狩に出かけ、満腹になれば大人しく自然の中で生きている。そうして命の連鎖を保っている。
どの動物も、植物も地球上の生き物すべてにおいて、バランスがありそのバランスを保つように命が繋がっている。すなわち増えすぎると淘汰されるということだ。
それは生きているもの、生物だけじゃなく地球も同じなのではないかと思うことがある。地球を破壊しようとするものを淘汰することがあるのは今回のコロナもそうだし、温暖化もそうだ。
温暖化で南極や北極の氷が溶け出すことは、土地が水没するだけではなく氷に閉じ込められていた未知のウィルスが空気中に放出されることにもなるとどこかのメディアが言っていた。
恐怖を煽られるのは好きではないが、ありえないことではないだろうと漠然と思っていた。
欲深いがために、何もかもを手に入れることがどれだけのものを犠牲にするか見えなくなっているとしか思えない。人間とはそんな動物かもしれない。
食べるものに困らない地域に住んでいると、食べ残しや無駄な排気を平気でできるようになる。昔の日本人は「食べ物を粗末にするな」「食べ物を残すな」と言われて育ってきた。だが、贅沢になりすぎたために廃棄することも厭わなくなり食べ続けることは「肥満」に繋がって行った。
負の連鎖の始まりである。
日本語には「足るを知る」という言葉があるが、足りていないわけではないのに、まだまだ欲しがるのはよく深いだけでなく、周りの環境によるものも大きく隣に何もかも手に入れる人がいれば自分も欲しくなる。
本当は足りていても、まだまだと言って欲をだす。本当はもう良いはずなのに。それは本人が一番知っているはずなのに歯止めが効かなくなっているのだろう。そこまでくると周りが見ても「もう良いだろう」ということになるのに、周りも言えないのは同じことが自分にも起きているからだ。
常に「不足している」という感覚を持っているのは「戦後の日本」であり今は何もかも足りているはずだ。なのになぜ不足感を漂わせているんだろう。
宇宙から見たら地球なんてちっぽけで、地球上で見ると人間なんてほんの小さな生き物の一つのはずなのに、常に不足感があるのはなぜか。
もっともっと、と思っていると心は壊れていく。本当は十分なのに、本当は足りているのに足りないと感じる心。それが現代人の欲深さなのかもしれない。
足るを知ることは地球を救うかもしれない。
自分一人じゃどうにもならないかもしれないが、それでも一人で「足るを知る」ことは周りに影響していき、少しずつ増えていくだろう。そうすれば、いつか不足ではなく満足している人が増え、環境が変わっていくかもしれない。
必要なものが必要なだけあれば生活できる。そんな世の中になれば無駄はなくなり、不足もなくなる。そうなれば足りている感覚が増えるんじゃないかな。
漠然とそんなことを思った。
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