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『1789』 歌っているのは誰か

2023年9月5日 火曜日
 風が少し冷たく感じたりはするけど、秋の日は遠く。なかなか涼しくならないねえ。

 やっと完治したと思っていたのに、またちょっとカゼっぽい。いよいよコロナか? 平熱なのでセーフ? いや、もはや何が本当なのか。さらに気をつけていこう。

 体が弱っているときに、熱め、濃いめの緑茶を飲むと、かなりHPが回復する(気がする)。マグカップに入れて蒸気吸入をすれば、初期のカゼ菌は大体やっつけられる(と信じている)。今日も助けられました。一個人の感想です。

 星組『RRR』のティーザー画像と出演者が発表に。礼真琴さん一人写り。正直、もしゃもしゃの髭がなくてほっとした。インド映画にハマってくると、あのヒゲなしでは見た気がしなくなるとは聞くけれど。

 『RRR』の礼さんは、『大王四神記』っぽいかな。
 それより、出演者です。水美舞斗さん、出ないのね。密かに期待をしていたので、それがなくなってちょっと残念。

 礼さんは今頃お休みを満喫している頃だろうか。『赤と黒』からの『1789』はホントにハードだったと思う。宝塚のことなんか忘れるぐらいにお休みしてほしい。

『1789』

 宝塚歌劇の『1789』を観ると、どうしていいか分からない熱い気持ちがわき上がる。舞台上のロナンやソレーヌたちと一緒に声をあげたいし、拳を突き上げたいし、前へ駆けだしてしまいたくなる。きちんと座席に腰掛け、舞台に集中する人たちを見てなんとか我に返る。

 ドーヴ・アチアのソングナンバーがとにかく最高だし、歌詞もいい。でも、わたし的に最高にすてきなのは、名だたる革命家たちを差しおいて、農村に生まれ育ったロナンを主役に据えているところだ。

 「アンサングヒーロー」という言葉がある。詩歌に歌われたり、記録に残ることのない、名もなき英雄のこと。善意や正義感からしたことが多くの人々を救ったり、実は世界を変えたりしているのだけど、当の本人は自分がしたことに気をとめることなく、もちろん英雄などとは思っていない。
 人々が集団になって大きな障壁に立ち向かおうとするとき、危険な任務に向かっていくのはたいていはそんな誰かだ。
 『ベルばら』だったら「バスティーユに白旗が」と叫んだ人だったかもしれない。パニック映画だったら、人々の命を守ろうと、いち早く危険な行動をする人。あるいは、一本の木を植えたことで、街を大雨の被害から救った人もいたかもしれない。でも、その人たちは、自分が世界の危うい均衡を守ったことなど知らない。

 『1789』は、自由と平等の「権利」を得るために戦った人々を描いた物語だが、同時にアンサングヒーローについての物語でもあると思う。
 実際『1789』は、ロナンの父が命を奪われることで物語が始まり、ロナンが命を落とすことで物語は終わりを迎えた。劇中で命を落とす場面がはっきりと描かれたのもこの二人だけ。

 劇中には、マリー・アントワネットを筆頭に、ロベスピエール、ダントン、デムーランといったフランス革命の重要人物たちが華やかに登場するけれど、それは作品を華やかに彩る装置のようなもの。宝塚のトップスターが演じることで意味合いは違ってしまうけれど、『1789』の主役はアンサングヒーローとしてのロナンなのだと思う。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          
 もっといえば、その名前はロナンじゃなくてもよかった。ジャックでもミシェルでも、ソレーヌでもよかったのだ。
 ロナンを含めた、名もなき者たちの小さな決断が、フランスを動かしていった。

 たとえば、もしもロナンがパリに行かなかったら?
 もしもソレーヌがロナンの後を追わなかったら?
 もしもマラーが革命思想のビラを印刷しなかったら?
 もしもオランプがロナンを助けようとしなかったら?
 もしもオランプの父が脱走の手助けをしなかったら?
 もしもアントワネットがオランプに暇を出さなかったら?

 史実とは違う、この物語の中でのことだけれど、彼ら彼女らの偶然のような小さな決断がつながり、ついにはあのバスティーユの扉を開けた。それがこの『1789』の面白さではないだろうか。
 そう考えると、タイトルが年号だけの『1789』だったこともしっくり来る。民衆の悲しみ、苦しみ、そして歓喜が、この作品の主旋律だからだ。

 星組版の『1789』がすばらしかったのも、この主旋律を際立たせた点にある。初演の月組版が「群集劇」だったとするなら、星組版の『1789』は、先に書いたとおり、アンサングヒーローとしてのロナンの物語になっていた。もちろん、月組の初演があり、東宝版があり、時代の後押しもあって、今の星組版ができあがったわけだけれど、身体表現に長けた礼真琴という人がいたことも大きかったと思う。
 ダンスも芝居もどれもすばらしいのは誰もが知ることだけれど、『1789』では、そのどれかが際立つというより、歌と芝居、立ち回り、身のこなし…そのすべて、いついかなるときでも身体性が伴った、その表現のしかた、礼真琴のロナンがそこにいることに魅了された。
 彼女が彼女の表現力に見合う作品に出合った時、言葉は舞台に追いつかなくなる。感じたことにぴったりくる言葉を探している時間がもったいないのだ。それよりも、歌を聴き、発する言葉に耳を傾け、その姿を追っているほうがずっといい(それは、心酔している役者の舞台を追っているときの感覚に少し似ていて、少し違う)。受け取るべき物語やメッセージは、彼女が必ず届けてくれる。

 『1789』における歌の力について。

 すべての歌は、その歌を歌う「権利」を持つ者だけが歌うことができる。ミュージカルでは当たり前な原則ではあるけれど、この作品ではその歌を「誰が歌っているのか」がことさら重要になる。人が、自由に生き、自由に愛する「権利」を獲得するまでを描いたミュージカルだからだ。

 例えば、狂乱の宴を歌った「全てを賭けて」はアントワネットとヴェルサイユ宮殿の貴族たちにしか歌うことはできないし、地位のない女が一人で生きていくことを歌った「夜のプリンセス」はソレーヌにしか歌うことができない。
 すべての歌は、その歌を歌う者が伝えたいことが言葉とメロディーで表現されていて、誰もが「自分の歌」を思いを込めて歌うのだ。自由に、自分の歌い方で。

 『1789』のソングナンバーは、ざっくりと「愛の歌」と「革命の歌」に分けられると思う。

 「愛」の歌では、 ロナンが歌う「二度と消せない」が忘れられない。オランプへの恋心を歌ったせつないラブバラードで、オランプによって牢獄から救出された後、恋の甘さ、そして、苦さを礼真琴さんが絶妙な味わいで歌い上げる。ロナンの顔に刻まれている拷問の痕にドキッとする。

 アントワネットが「愛」について歌うのが、最後の「神様の裁き」だけだというのはちょっと面白い。
 狂乱の遊びを歌った華やかな楽曲「全てを賭けて」に流れているのは、若きアントワネットの「自由に生きたい」という強い気持ちだ。ある意味では、ロナンたちの歌う「革命の兄弟」や「パレ・ロワイヤル」と同じ「革命」の歌だったのかもしれない。ただ、アントワネットや王宮の人々が守ろうとした「自由」と「享楽」は、本来守らなければならなかった民衆の心と体を傷つけることで成り立っていたもの。求めてはならない「自由」だったのだ。
 マリーとフェルゼンが歌う「許されぬ愛」の場面が観られなかったのは残念だけれど、それさえ奪われてしまったのは象徴的ではある。アントワネット(有沙瞳)が処刑前に歌う「神様の裁き」は大きな愛の歌だけれど、その愛は彼女が本当に求めたものだったのだろうか。本当の気持ちなのだろうか。誰かに歌わされているのではないといえるだろうか。
 歌い終えたアントワネットがふっと振り返ると、ルイ16世( ひろ香祐)が考案したギロチンが作動する。この場面の冷たさ。穏やかな人物だったのであろうルイ16世が、この装置を最後まで人道的なシステムと信じ続けた(ようとした)ことがおそろしい。子供たちの命を誰も救えなかったことも。王宮の人々と、バスティーユに押し寄せた民衆たちとの、どうしようもない断絶。

 「革命」の歌も、誰が歌っているのかが重要で、どの曲も歌う者それぞれの視点から歌われている。

 ロナンの「肌に刻み込まれたもの」が強く胸に響いたのは、民衆の悲しみと苦しみそのものを歌っているからだと思う。この悲しみのバラードを歌うことができるのは、それらを知る当事者のみ。ここでは、デムーランやロベス・ピエール、ダントンに歌う権利は与えられない。
 彼ら革命家たちとロナンが出会い、対話をすることで、ロナンが変わっていくようすもすべて歌になっている。ロナンと革命家たちの激しい議論は「自由と平等」となり、「声なき言葉」へとつながっていく。
 もちろん、革命家たちの思想も歌になっている。「誰の為に踊らされているのか?」はロベス・ピエールと民衆の、「世界を我らに」はデムーランと民衆の歌……。
 圧巻なのは、自由の「権利」を求めるすべての者たちが声を合わせるナンバーだ。根城のない民衆や革命家たちがパレ・ロワイヤルに集まって理想を語り合う場面は、その名も「パレ・ロワイヤル」という劇中一楽しいナンバーになっている。
 そして、劇中一気持ちをぎゅっとつかまれてしまうのが終盤の「サ・イラ・モナムール」から「肌に刻み込まれたもの」だ。

「俺の存在は大海の藻屑にすぎないかもしれない。だが、俺たちの進む道は明日のフランスを救う。そう信じているんだ」

『1789』第8条「パリ市街」

 それは、バスティーユに「火薬を取りに行く」とロナンがオランプに告げたことから始まった。

  サ・イラ・モナムール きっと上手くいく
  もうおまえを泣かせないと誓う
  サ・イラ・モナムール 手に入れるのだ
  誰もが自由に愛し合う世界

『1789』「サ・イラ・モナムール」より

 言葉は希望に満ちているけれど、現実は絶望の崖っぷち。それを正しく伝えているのが悲愴感にみちたメロディーだ。
 オランプへの愛が変わったわけじゃない。むしろ、思いはもっと強くなっているかもしれない。でも、それよりももっと大きな、世界を変えるための任務を選んだのだ。考え、選択する時間などなかったかもしれないけれど。
 そして、ギターの音と共に「肌に刻み込まれたもの」へと続く。ロナンは武器を手にし、目の前にいる恋人だけではなく、自由に生きられる世界を思って、この歌を歌う。本舞台では、戦う七人の仲間たち一人一人にスポットが当たる。ここではもう、「愛の歌」と「革命の歌」が同化している。

 『1789』を観ていると、自分の中にもいる小さいロナンが暴れ出す。

 1789年8月26日、フランス国民はひとまず自由の権利を勝ち取った。2023年のいま、日本は、世界はどうだろう。
 自由や平等の「権利」を手に入れた国は多いかもしれない。でも、本当の意味では、未だ実現されていない。戦争や紛争がとどまることもない。

 私たちはまだ達成していないのだ。
 だから、歌い、求めていかなくてはならないのだと思う。「誰もが自由に愛し合う世界」を。

 「ミュージカル=エンタメ」と、わたしは考えないし、現実とフィクションは違うのだと強調する必要はないと思っている。フィクションが現実に裂け目を入れることだってあるし、フィクションと現実をつなげることで新たな世界が見えてくれることもある。それこそがフィクションの役割だとも思う。
 だから「サ・イラ・モナムール」は、「誰もが自由に愛し合う世界」にしようという強い気持ちが込められた現代のプロテスト・ソングだし、『1789』を観ると、日本の政治をこのまま今の為政者たちに委ねているわけにはいかないと思う。

 ロナンたち、名もなき人々が命をかけて戦ったことを讃美したいわけじゃない。
 ロナンたちが、人が生きる権利を奪ったこともあったと思う。それは許されるのか? どんな理由があるにせよ、人の命を奪う権利は誰も持っていないはずだ。

 考え始めると、何を信じればいいのか分からなくなってしまうけれど、そんなときには、ロベスピエールと民衆が歌った「誰の為に踊らされているのか?」が指針になってくれるかもしれない。

 「誰の為に踊らされているのか よく見極めろ
  国王たちの思うままに 踊り続けはしない」

『1789』「誰の為に踊らされているのか?」より

 言葉とメロディーがしっかり合っている。何かおかしいなと思ったとき、ロベスピエールのこの言葉を当てはめてみると、視界が開けてくる。

 たとえば、いま、多くの生活者が、上がらない賃金、止まらない物価高、先が見えない円安に苦しんでいる。政府が打ち出す施策があったとして、それが「誰のため」のものなのかを考えてみるといい。
 それは、生活者のためのものになっているだろうか。利権を得ている大企業や株を動かせる富裕層を守るためのものではないだろうか。

 検討されているインボイス制度は、国に納められていなかった消費税を正しく徴収するためだという。消費税が持っている問題を解決しようとする前に、政府は実質収入が減り続けている国民からさらに徴収しようとする。これは「誰のため」に「何のため」に行われようとしているのだろう。

 G7で「同性婚」と「夫婦別姓」を法的に認めず、LGBTQなど性的少数者への差別禁止法を制定していないのは日本だけだ。首相は「(同性婚を認めたら)社会が変わってしまう」と国会で答弁した。
 「社会が変わってしまう」? 社会に変わってほしいと、多くの人が働きかけている。それを認めない理由がこれ?「社会が変わったら困る」のは、「変わってほしくない」のは、どんな人たちなんだろう?

 9月15日に閣議で決まった岸田内閣の改造人事は異様だった。副大臣26人と政務官28人(計54人)は全員男性議員で、女性議員はゼロだった。

 副大臣は 男性26人 女性ゼロ
 政務官は 男性28人 女性ゼロ
 「全員男性なんだね」

 思わず「三部会」の替え歌を作ろうかと思ってしまったほど。
 世界経済フォーラム(WEF)が発表した2023年版「ジェンダーギャップ報告書」で、日本は調査対象となった146カ国のうち125位(前年は116位)だった。
 男性のための政治が、既得権益を持った男性が椅子にしがみついている社会がいつまで続くのか? 

 それにしても、「誰の為に踊らされているのか?」を歌った清廉なロベスピエールが、その後恐怖政治を行うだなんて、劇中の登場人物は誰も思わなかっただろう。こうした権力の危険性を孕んでいるのも『1789』の優れた点の一つだろう。

(ロベスピエールとアルトワ伯爵のダブルキャストなんて、あっても面白かったかもしれない。ロベスピエールは、「私は神だ」と歌いかねないくらいの変貌をすることになるので、その行く末の暗示として)

 1789年のロベスピエールが言うように、名もなき民衆としての私たちにできることは、踊らされそうになったときには、それが「誰のため」のものかを見極めることだ。歌っている人がいたら、「誰のために」歌っているかを見極めることだ。「誰のために」が、「国のために」とか「家族のために」「会社のために」「平和のために」「子供たちのために」と、大きなものになったらちょっと注意をしたいと思う。

 と書きつつ、大きな話になってしまった。最初に書いたとおり、『1789』を観ると、自分の中のロナンが動き出してしまうのだ。

 音楽や演劇で社会を変えることはできないけれど、誰もが自由に人を愛し、学び、健康に過ごせる、戦いのない世界を望む思いを強くすることはできる。

 舞台を観た後の熱を絶対に消したくない。この作品を観た人たちみんなの胸にも消えないで残っていてほしい。ロナンのように「考えること」「世界を変えよう」という気持ちを持ち続けてほしい。舞台とこの世界はつながっている。

 見終わると、いつもそんな気持ちになった。星組の『1789』は、そんなパッションをもたらしてくれるすばらしい舞台だった。

 世界を変えよう。
 戦争反対。
 サ・イラ・モナムール。

 
 

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