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さよなら。Bar citr0n


citr0nの閉店から数週間が経った。
いろいろな気持ちの整理がついたので、言葉を残しておこうと思う。
ほとんど自分宛の手紙みたいな内容なので、あなたに届けるための敬語は使わないでおく。


さて、Bar citr0nとはなんだったのか。
あの恵比寿の裏路地にある、真新しいビルにそぐわぬ古めかしい装いをしたバー。
店内にはライムとバジルの芳香がどこからともなく燻っていた。


18:20頃、店員が扉を開ける。チリリンと小さく扉にかけた鈴が鳴る。足元には卸から届いた酒の箱が山積みになっていてとても入りづらそうだ。

ボタンを押し、店内の電気をつける。といっても光量を最大にしても足元は暗く、細かい作業には向かない。
薄ぼんやりとしていて、昨日そこにいたお客様たちの空気をまだそこに残しているかのような仄かな澱みを感じる。
この澱みもまた、慣れれば心地よいものだ。


店員は着替えを済ませ、床の掃き掃除を始める。

この店には、これといって「お決まりの挨拶をしてね」とか「このメニューをおすすめしてね」「こんな風にお客様の相談事に答えてね」などの決め事はない。

シフトの出勤ボタンを押し、退勤ボタンを再度押すまで、店員にその振る舞いを委ねられる。オーナーがあまりにも放任主義なせいだ。
店長はだいぶと手を焼いたことだろう。

店員は果物屋に足を運ぶ。今日は洋梨と苺、キウイを手に取ることにした。
なるべく色の良いものを手に取り、今度はドラッグストアでハンドペーパーとゴミ袋を買う。
ここのドラッグストアは夕方になると混雑する。
腕時計に目を配り、お客様を迎えるまでの時間で何をすべきか頭を巡らす。

急いで店内に戻ると早くもビルの5階にはお客様の姿があった。

「すみません! 急いで準備するので少々お待ちください」

「いえいえ、私が早くきてしまったので、すみません」

「よかったら個室でお待ちください。お時間になったらお呼びいたします」

 このバーには完全個室がある。カウンター席とはまた違った、荘厳な設えをしたラグジュアリーな空間だ。
しかし、この部屋はあまり人気がない。というのも、このBar citr0nはカウンター席に座り、店員との会話を楽しむためのバーだからだ。
どれだけ上質な個室だろうと、あまり人気がでることはなかった。
オーナーは渋い顔をしていた。
 


「お待たせしました、こちらへどうぞ」

 ひとりの女性はおそるおそるハイチェアへと腰をかける。
どうやら”バーで飲む“という経験が初めてなようだ。

「Bar citr0nでは季節のフルーツを使ったフレッシュカクテルをおすすめしております。本日は洋梨、苺、キウイのカクテルをお作りできます」

「じゃあ……キウイで」

 承知しました、と店員はキウイを手に取り、華麗な手捌きで果物の皮を剥く。
 数分のうちにカクテルが手元に渡される。クランベリージュースの赤とキウイの緑が二層に分かれ見映えが良い。

「……美味しい! 初めて飲みましたキウイのカクテル」

「お口に合って嬉しいです。当店はどうやって知られたのですか?」

 店員はカクテルメイクに使ったリキュールの瓶を棚に戻しながら話し始める。

「インスタでMIYAMUさんの投稿を見て、あと小説も読んで。実際にバーがあるんだーって知って、来ました」

「実際に足をお運びいただきありがとうございます。小説のイメージと合いますか?」

「はい! イメージしてた通り、っていうか、それ以上かもしれないです。あの……相談ってしていいんですか?」

「もちろんです」
 女性はグッとカクテルをひとくち流し込む。

「先週、好きな人が婚約したんです。好きになって、好きだってことを伝えて、好き同士かなー? みたいな距離感だったんですけど、ちゃんと面と向かって言われました。“婚約したんだ“って」

 店員は拭いていたグラスを置く。


「……あなたのお気持ちは?」

「お気持ちですか」

「悲しかった、悔しかった、イライラした、とか」

「どれも当てはまらないかもしれないです。もちろん、最初は浮かびました。でも通り雨みたいな感じで、一瞬で通り過ぎて、そのあとは……」

「そのあとは?」

「おめでとうって思えました。きっと私の好きは、まだその人のことを”気になるな“ってくらいの好意で。結婚がどうとか、未来がどうとかを考えられるほどじゃなかった。彼は自分に向けられた好意に優先順位をつけて、間違わずに選び取った。それが私じゃなくても、私は嫌じゃなかったんです」

「自分の好きよりも、彼が最適解を見つけられたことの方が嬉しかった、と?」

 んー……としばらく考え込み、アミューズのパスタスナックに手をかける。

「このパスタスナック美味しいですね。普段こういうの食べないから」

「美味しいですよね、私もよくつまんで食べてます」

「自分の“好き”に自信がないのかもって思うんです。彼との関係性がどうとかよりも、悩みはむしろそっち側にあります。いつまで経っても自分の好きに自信が持てない。好きな映画のレビューが低かったら、やっぱり面白くなかったかも。って自分の中で結論を変えてしまいます。大好きだった元カレから振られて体重がごっそり落ちるほど病んでたときも、友達から『あんな最低男別れて大正解だよ』って言ってもらえたら、どこが好きだったか分からなくなって、ご飯バクバク食べられるようになりました」

「元気になれてよかったです」

「流されやすい自分のことが怖いんですよね。好きだって思えた人に、モノに出会えても、いつかスッと冷めてしまう気がして。一生大切にできるものって、私にはないんじゃないか、薄情なんじゃないかって」

 店員は洗ったグラスを拭き終わり、慎重に棚に戻す。壁にかかった古時計が秒針を進める音が聞こえる。

「好きなものを誇るって、結構難しいことですよ。否定されたら自分ごと否定された気分になりそうで怖いです」

「バーテンダーさんもそう思います?」

「思いますよ。怖いですよ、好きを誇った瞬間に笑われでもしたらどうしようって思います。でもやっぱり、その”好き”からしか得られない栄養とか、元気とかってあるじゃないですか。Googleマップレビューで悪口が散見されても、あの焼き鳥屋さんの鳥スープは美味しいし、原作ファンが酷評していても、実写映画のあのセリフをあの役者が言ったときには感動したし。私の人生とすれ違ってくれてありがとう、って思えます」

 女性は握り拳をぎゅっと固く結び、言葉を落とす。

「本当は、おめでとうなんて思ってないかもしれないです。ふざけるなよ、私の浮ついた心返せよ、いや、違うなあ……それさえも強がってます。好きだったなあ。こっち向いてほしかったなあ。彼と結婚した方のこと、何も知らないけど、その人よりも私とのほうが幸せになれたかもよ! とか、そういうこと思ってます。忘れたいけど、忘れたくありません。もう好きじゃない、って毎日言ってなきゃやってられないくらい、毎日好きです。あーもう、泣くつもりじゃなかったんですけどね」

 店員は女性の前にティッシュを差し出す。女性は何度もお辞儀をしながら、ティッシュを何枚も手に取る。

「かっこわるくても、笑われても、それでも自分が好きだって思えた瞬間を大切にできる人の方がかっこいいと思います。大人ぶるのって簡単だけど、簡単に割り切れないことだってあります。たくさん話してくれてありがとうございます。よかったらもう一杯いかがですか。うちのオーナー、チャイナブルーってお酒が好きなんです。カクテル言葉は、“自分自身を宝物だと思える自信家”なんですって」

「いいですね、それ。チャイナブルー、お願いします。よかったらバーテンダーさんも、乾杯しましょう」

「ありがとうございます! お言葉に甘えて」

Bar citr0nの夜が過ぎるのは早い。
恵比寿の一等地に店を構えているのに、営業時間は19:00~23:30。
月曜日と水曜日はお休み。

オーナーは、この店を頼りにしてくれる人だけを集めたかったようで
新規獲得のためのアプローチもあまり行なっていないようだ。
傍目に見ても、経営上手とは言えない。

その日もまた、店内にはライムとバジルの芳香がどこからともなく燻っていた。

Bar citr0nとはいったいなんだったのだろう。
答えは、そこを訪れた人にしかわからないらしい。


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