何故飛行機に乗るとき、私達はビールを飲むのだろう

どうして、飛行機に乗るときや電車に乗るときに、ビールを飲みたくなるのでしょうね。
たとえそれが朝一番の6:30のフライトだったり、新幹線の最終便だったとしても、僕はとりあえずビールが飲みたくなります。それと少しのミックスナッツ。

これはあくまで僕の仮説に過ぎませんが、それは今まで過ごしていた場所 "A" から移動先の場所 "B" に肉体を移動させるプロセスにおける、一種の緩和剤のような役割を果たしているのではないかと、ふと思った訳です。

移動、時にそれは旅行であり、旅であり、引っ越しであり、帰省であり。様々な形を取りますが、日常の生活の拠点としていた場所から何かしらの理由で離れる、ということを意味します。

しかしながら、飛行機に乗ってしまえば北海道から羽田まで1時間30分。その先にある東京の風景というのは、情報量やモノの流れる速度、空気感において全く異なるものが突然と目の前に現れる訳です。

人生を30数年こなしていると、住み続けた場所や、気に入った場所から離れる事が少なくとも何度かありました。少しの時間のフライトを経て、目の前にある世界は今までと全く異なっていることがほとんどです。それに際して、飛行機に乗ったり、新幹線に乗るということは心のどこかで「違う場所に行く」と覚悟を決めた…といえば言い過ぎかもしれませんが、ある程度、環境の変化が少なからず訪れることを認識した上で移動することになります。

僕が旅が好きな理由はここにあって、異なる場所に肉体を移動させることによって、ある程度心に混乱が生まれます。空気の匂いが違うとか、人が多い/少ない、醤油が甘い/甘くない、ゴキブリがいる/いない…など。

肉体は羽田空港から宮崎空港まで、1時間30分で移動はできますが、精神は1時間30分でその現地にアジャストすること、というのはなかなか難しいのではないかと思うわけです。なぜかというと、移動前の場所にて生活し、人と出会い、好きな定食屋を見つけ、落ち着く公園でゆっくりと煙草をふかしていたことがあるから。

同じ環境を移動先で見つけることは難しい。なので、肉体の移動と同時に、人は、精神の移動もその工程に於いて、実は求められているのではないかと思うわけです。

精神の移動に求められること、それは一種の「捨てること」なのではないかと思います。大切な人々を忘れる、ということではなく、例えば「もう柔らかいうどんが食べられなくなる」とか「ジメッとした7月中旬の空気感が味わえなくなる」とか「聞き慣れた方言が聞けなくなる」とか。

肉体は簡単に場所を移動することができますが、精神に求められるその「移動」に際する変化を受け入れる負荷というものはなかなかなものだと思います。

だからこそ、私達はビールを飲む。ビールを飲むと、穏やかにものごとを捉えられる(ような)気がするからです。考えすぎても仕方がなく、肉体は勝手に移動をしてしまう。なんとか精神もそれに付随していかないことには新しい場所で何かを組み立てることは不可能である。しかしながら、考えすぎても次の場所の出来事は次の場所でしか受け入れることができないわけで、求められる思考の一種のパズルのピースも、従来とは異なる。

そんなときにビールが一缶あれば。少し考えすぎることを停止/低速化させることが出来るのではないか、と思うのです。つまりはリラックスして次の状況を受け入れる体制を整えることができるのではないか、ということです。

なので、僕はきっと移動する時にビールを飲む。喉が痛い時にのど飴を舐めたり、目が乾いた時に目薬を差すように、大きな移動をするときにビールを飲む。それは、一種の緩和剤であり、麻酔であり、抗生物質であるのではないか、と思っているのです。

そして目の前に訪れる景色を、穏やかに受け入れる事ができたなら。それほど素敵なことは、無いのではないでしょうか。

明日は車で大阪まで福岡から移動して、その後新幹線で東京へ帰ります。新幹線で飲むのは、やはり黒ラベルでしょうか。

日常から離れるような移動があなたにも訪れるならば、なるべく穏やかなものでありますように。

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