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日本の軍人とイスラエル兵のふるまいが重なる? 山口淑子さんが見たパレスチナ問題

 女優で、パレスチナ問題にも理解をもっていた元参議院議員の山口淑子さんは北京の女学生だった時、抗日集会にも参加したことがあり、日本軍が攻めてきたら北京の城壁の上に立ちますとも話したことがあった。「日本の軍人は当時本当に威張っていました」「私が仮に中国人だったとして、同じことをされれば、日本を嫌いになっていたでしょう」と語っていた。(「李香蘭が語るアジア」より)


 パレスチナに行き、イスラエル兵のパレスチナ人たちに対するふるまいに同様なものを感じることはしばしばある。エルサレム旧市街のアラブ・ムスリム地区の出入り口であるダマスカス門で、パレスチナ人男性の若者がリュックサックを背負っていたら、4、5人の男女のイスラエル兵たちがそのパレスチナ人を力づくで取り押さえて四つん這いにさせてリュックサックの中身をチェックしていた。思わずその扱いはないだろうと傍から見ていて憤ったほどだ。

 カメラがフィルム写真だった頃、空港で安全のためだと言われてイスラエルの保安係にカメラを取り上げられて強いエックス線をかけられてフィルムがダメになり、旅行の記憶がフイになったこともあった。エミレーツ航空でトルコのイスタンブールまで行き、トルコ航空からテルアビブに入った時、私のスーツケースは国交を正常化していないUAEから来たというせいもあったのか、鍵を無残に壊されたこともあった。その時、イスラエルの安全のためという理由で、家屋を破壊されるパレスチナ人の苦しみが理解できるようだった。

 2008年夏にイスラエル・テルアビブ大学のワークショップに参加した時、テルアビブ大学のイラン研究のデヴィッド・メナシュリー教授が「日本とイスラエルには類似点がある。日本は海洋国家で魚(サカナ)に囲まれ、イスラエルもサカナ(イスラエルの言語ヘブライ語で『脅威』の意味)によって囲まれている」と言っていた。教授は早稲田大学に客員研究員として何度か夫人とともに来日し、日本での生活体験もあった人で、オスロ合意を熱烈に支持していた。

 イスラエルが安全保障に、我々日本人から見れば過敏とも思われるほど、敏感なのは、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるホロコースト体験とともに、建国後周辺のアラブ諸国と戦い、また国の内外でパレスチナ・コマンド(ゲリラ)やハマスなどパレスチナ武装勢力と暴力的衝突を繰り返してきたことがあるだろう。

 冒頭の山口淑子さんは1973年夏にイスラエルのエル・アル航空のハイジャックに失敗してイギリスで身柄を拘束されていたパレスチナ人コマンドのライラ・カリドにインタビューした。ライラが「私たちはユダヤ人を憎んでいるわけではない。力ずくで私たちの国を奪おうとする行為に反対しているのです」語ると、ハイジャックは非道な行為であるとは思いつつ、ライラの「イスラエルに奪われた故郷の上を飛びたかった」という言葉が、山口さんには日本人が中国東北部に「満州国」を建国した過去にダブって響いたという。

山口淑子『誰も書かなかったアラブ』より


 中東戦争の取材についても「私は、自分の心の傷をいやすために、わざわざ戦場に来ているのではない。その傷をもうこれ以上増やさないために、もう、あの中国大陸の戦場から逃げ出した時の傷を、新しく生まれた戦場の上に傷跡として残したくないために来ているのだ。」と中国での体験と重ね合わせて語った。(山口淑子『誰も書かなかったアラブ』1974年)

『誰も書かなかったアラブ』より


 『誰も書かなかったアラブ』の中には「四次にわたる『中東戦争』の中で、『パレスチナをめぐる問題』が何か一つでも解決されたことがあっただろうか。
 イスラエル軍は国連決議を無視して『占領』を続けるし、アラブ・ゲリラは、その報復と『奪還』をめざして一層過激な行動に出ている。
 ときたまもたらされる大国間の申し合わせによる『中東和平』は、その戦いのたまさかの休みであり、真の『解決』にはいつも至らない。」と書かれてある。

 同書の中で山口さんは「戦争の災禍をもろにかぶるのは弱い人々なのだ」と述べているが、10月7日にイスラエルが報復攻撃を開始してから3000人近いパレスチナの子どもたちが犠牲になった。パレスチナ問題は山口さんの観た1970年代から何も変わっていないことが実にもどかしく思える。

『誰も書かなかったアラブ』より
『誰も書かなかったアラブ』より


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