「欲」のコントロールについて考える。
生きる上での本能的な欲がある。
食欲、性欲、睡眠欲、排便欲、呼吸欲。
(ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%B2 参照)
そして、こうした生きる上での基本的欲求が満たされると、マズローの欲求階層論で示される高次な欲へと展開する。
ところで、基本となる本能的な欲求は別として、承認欲、自己顕示欲といった高次な欲求は、自分で何とかコントロールできる欲求と言えるのではないだろうか。
つまり、自分に対して、他人に対して、社会に対して、「~~であらねばならない」とか「~~せねばならない」といったネバネバ欲求は、自分で何とかコントロールできるのではないだろうかということである。
自説となるが、その欲求の根底には、「自分は正しい」というマインドが存在するように思う。自分の正しい意見を、今の自分や他人に押し付けるということ。
そんな自分が発するエネルギー(想念)は、往々にして反発を産み出す結果になる。そして最悪は、紛争、戦いを引き起こし、勝者敗者ともに悲惨な結末を迎えることになる。
では、そういったエネルギー(想念)を消滅させるには、どうすればいいのだろうか・・・。
これも自説であるが、自分自身の心の中を「無」にすることで消滅するように思うのである。それは、「座禅」や「祈り(願いではない)」という行為の中で得られるのではないだろうか。
その一方で、何か作業などに集中していれば心は無になるのではないかとも思えるが、それが目的を持った集中行為であれば、やはり完全な無の状態とはいえないように感じる。もちろん、何かの集中行為の後に、放心状態になることとも違う気がする。
そこで、「無」の心理状態とは、いったいどんな状態なのだろう?という疑問が湧いてくるのだが、まずは、すべての人が個々に「無への入口」を持っていると感じる。例えば、ソファーに座って好きな音楽を聴いている時、お気に入りの店に入って何も買う訳でなくウインドーショッピングをしている時などなど。
そんな心地いい時間の流れの中で、「無」の状態は訪れるように思う。つまり意図的に「無」の状態を作りだそうとするのではなく、自然に訪れるのではないだろうか。
そこで訪れる「無」の心理状態は、言葉では表現できない状態が、その説明として正解ではないかと思うのである。それは、想念や言葉という色(意味付け)がないという意味で。・・・これも意味付けか(笑)。
つまり、最後の結論としては、言葉も想念も必要のない世界が自分の心の中に出来上がることだと思うのである。それによって、自分の発する欲をコントロールすることができるのではないだろうか。
終
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