文字を持たなかった昭和 百五十九(昭和の電気屋さん)

 昭和40年代前半、母ミヨ子の家(つまりわたしの実家)に冷蔵庫が「来た」こと、それによって生活が変ったことを書いた。

 冷蔵庫を届けてくれたのは、近所――と言っても歩けば20分くらいかかるところにある家電販売店、というより電気屋さん「正光(せいこう)電気」のおじさんだった。

 スーパーでも電化製品を売り始め、やがて家電量販店が隆盛を極めるようになってから、ひとつの大型店舗で複数のメーカーの家電を販売するのは当たり前になったが、電化製品が普及し始めてからの長い間、個人や小規模の事業者が商品を販売していた頃は、メーカー別の系列が明確だった。ことに、ミヨ子たちが住んでいたような地方の小さな町では、個人のつながりからか特定のメーカーの代理店になっている電気屋さんがほとんどだった。

 正光電気は東芝の代理店だった。なぜ東芝だったのかはわからないが、東芝以外の電気製品を取り扱っている様子はなかった。ミヨ子の家に初めて「来た」ワンドアタイプの冷蔵庫ももちろん東芝製だった。もっと前に「来た」白黒テレビも、その後継のカラーテレビも、冷蔵庫に前後して「来た」洗濯機も、すべて。

 もちろん、町内には他のメーカー系列の電気屋さんもあった。二三四の120~130人ほどの同学年生の中に、覚えている限り電気屋さんの子供が3人いて、1人は正光電気、1人はナショナル(いまのパナソニック)の系列店、もう1人は独立系というか、店名は「ラジオ店」だが電気製品も扱っているお店の子供だった。ちなみにこのラジオ屋さんは腕がよく、子供たちもみな優秀で、二三四と同学年の無口な男の子はその後鹿児島ラ・サールから東大へ進んだ。

 この項を書くに当たって、念のため東芝のホームページで冷蔵庫の歴史を確認したところ、記憶にあるワンドアタイプの冷蔵庫は昭和41(1966)年販売のGR-120SYで、「2つの冷却器を使用し、霜をカットした2温度式冷蔵庫 」と説明されている(霜は完全にはカットできていなかったことは書いたとおり)。

 ホームページの写真では見えないが、扉には花びらに象ったデザインの、一辺7,8センチの四角い凹凸が、いくつか縦に並んでいた。一般のつるんとした冷蔵庫の扉と違いちょっとしゃれていて、子供の二三四は少し得意だった。

 正光電気はミヨ子の夫・二夫の遠戚に当たる家だった。裸電球一個から最新の家電まで、すべてこの電気屋さんから買っていた。当時のこととてそれこそ「定価」だったはずだが、多少おまけしてくれたこと、故障すればすぐに見てくれること、何より支払いは農作物を収穫できてから、という「つけ」が効いたことから、店主のおじさんが年を取って体調を崩すまで長いつきあいが続いた。 

 だから、ミヨ子にとっても二三四にとっても、電化製品と言えばまず東芝で、そのイメージ(刷り込み? 呪縛?)はあとあとまで続いた。

 その東芝は後に、経営危機により「事業の取捨選択」を行った結果、家電部門を中国のメーカーに売却してしまう。世界の電気製品のシェアにおける日本メーカーの縮小、というより衰退は東芝に限ったことではないが、日本中にそれぞれ系列店を展開していた電機メーカー各社の力強さ、華々しさをある意味わがことのように誇らかに思って育った世代としては、やはり言い知れぬ寂しさがある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?