文字を持たなかった昭和424 おしゃれ(20) 浴衣

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これまでは、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べてきた。ここらで趣向を変えおしゃれをテーマにすることにして、モンペ姉さんかぶり農作業用帽子などのふだん着に続き、「チョッキ」カーディガンブラウス緑のスカートなどよそ行きにしていた服、そして下着類について書いた。概ね昭和40年代後半から50年代前半のことだ。

 もう少し、ミヨ子が着ていたものについて記しておきたくて、前項では着物(和服)について書いた。そこでは、ミヨ子たちの世代はふだん着としての着物からは遠ざかりつつあったという趣旨のことを書いたが、着物自体はまだ身近だった当時、もっと身近だったのは浴衣だった。

 ミヨ子も、夏の夜湯浴みしたあとなどに浴衣姿になることがたまにだがあった。ミヨ子の浴衣は白地に紺の柄が入っていた。どんな柄だったか、二三四(わたし)ははっきりと思い出せない。小さな柄が集まった感じではなく、わりと大きな柄がざっと描かれた――筆で肩口から裾へ、という感じに大きく――ちょっと変ったものだったと思う。

 母親の着るものにそこそこ興味を持っていたはずの娘がはっきり覚えていないのは、ミヨ子が浴衣そのものをあまり着なかったせいだろう。

 着物自体が日常からどんどん消えていき始めた時代、ミヨ子が浴衣をめったに着ないことをそれほど奇異に思っていなかったが、ずっとあとになって、というよりつい数年前「そういうことだったのか」と腑に落ちた。

 それなりの規模の農家の一人息子に嫁いできたミヨ子は、働き者の舅と姑の前で控えめな生活を続けていた。ミヨ子たちが住む農村地帯では、お産のあとひと月は家から出ない習慣があっり〈187〉、ミヨ子も産後は敷いたままの布団の上で休んだり、赤ん坊の世話をしたりしていた。

 外に出ないから寝間着代わりの浴衣姿で過ごしていたのだが、まだひと月たたないうちに、姑のハルから言われた。
「寝間着のままでゴロゴロして」

 それからは、夜休むとき以外は浴衣を着ずに、ふだん着で過ごした。赤ん坊の世話をするときも。それが産後の女性にとってどのくらいしんどいことだったか、出産経験のない二三四には想像できないが、少なくとも窮屈には違いなかっただろう。もしかするとミヨ子にとって、浴衣はあまりいい思い出がない衣類だったのかもしれない。

〈187〉産後1カ月は、外出はおろか家族以外の人ともできるだけ会わないようにする習慣だった。1カ月過ぎると「日が晴れる」と称した。これが限られた地域の習慣なのか、鹿児島全体のものかは確認できていない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?