文字を持たなかった昭和423 おしゃれ(19) 着物

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これまでは、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べてきた。ここらで趣向を変えおしゃれをテーマにすることにして、モンペ姉さんかぶり農作業用帽子などのふだん着に続き、「チョッキ」カーディガンブラウス緑のスカートなどよそ行きにしていた服、そして下着類について書いた。概ね昭和40年代後半から50年代前半のことだ。

 もう少し、ミヨ子が着ていたものについて記しておきたいと考えたとき、浮かんだのが着物(和服)である。

 当時着物はいまよりずっと日常でよく見かける衣類だった。ミヨ子たち世代もさすがに着物をふだん着にしてはいなかったが、ミヨ子よりもっと上の世代、たとえば姑のハル(祖母)は、ふだん着は紺絣の着物だったし、簡単な農作業ならその裾をからげたくらいでちゃちゃっとすませた。ほかのおばあさんたちも大同小異だったから、着物姿は非日常ではなかった。

 とは言え、ミヨ子たち当時のおかあさん世代にとって、着物を着ること自体はだんだん特別になりつつあった。なにより、裾さばきに気を使う着物のままでは農作業はもちろん、ふだんの家事ですらやりづらかったから。戦時という非常事態が発端とはいえ、モンペの動きやすさを知ってしまうと、それが日常のスタンダードになった。

 それでも、ミヨ子たち世代にとって「きちんとした用事」のとき、着物はまだまだ最優先で着る服だった。

 慶弔、つまり結婚式や法事のときは紋付の留袖を着た。いまと違い「会場」はそれぞれのお宅だった時代が長く、自宅で自分で着つけてから出かけた。寒い時期、ストールを肩にかけても足りないときは「道行き」と呼ぶコートを羽織ることもあった。子供たちの幼稚園や小学校の入園・入学式も、留袖に羽織を羽織れば様になった。

 逆に、それ以外にどんな着物を持っていたかを、二三四(わたし)はあまり覚えていない。だが嫁入り箪笥があり、着物を収める浅い抽斗も埋まっていたから、ミヨ子はそれなりの枚数の着物を「嫁入り衣装」として持ってきていたのだと思う。

 その後、既製品の「礼服」が普及して慶弔でも着物を着る機会がどんどん減っていき、ミヨ子もぱったり着物を着なくなった。しかしある時――もう子供たちが完全に独立し夫婦だけになった60代のころだろうか――ミヨ子は自分用の訪問着を1枚仕立てた。どうやら訪問販売で勧められたらしい。

「断りきれなくてねぇ。月賦で買ったのよ」
 帰省の折りに実物を見せられた二三四は「正絹」(シルク100%)の着物と、手の込んだ織りの帯を見せられて(いったいいくらしたんだろう)と驚いたが、母親が自分のお金で自分のために買うのならまあいいか、と考えることにした。

 最終的に二三四が譲り受けたその着物については「ひとやすみ 着物」で述べている。


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