昭和のお弔い

 本日(2022年9月27日)、安倍晋三元総理を送る国葬が行われた。

 国葬自体については賛否両論あり、かつ否定する世論が多いのは承知している。もとより、思想や言論は日本国憲法(ただし、終戦直後アメリカから押し付けられ、その後一度も改正していない)で保証されている。

 わたしがここで言いたいのは、昭和の、というより日本古来のお弔いについてだ。

 人が亡くなったら、生前の行いは別にして、均しく神または仏になる。それを敬意をもってお送りする。

 これが日本的なお弔いだとわたしは教わり、信じて育った。たとえ悪人でも、亡くなったあとは(ひとまず)手を合わせて送ると。

 今回の国葬をめぐる騒ぎ――と言っていいだろう――を見ていると、そういうつつましやかさ、謙虚さの対極を見ている気がする。

 繰り返すが、現在の日本において思想も言論も自由だ。それでも、弔意と節度は、自ずからあるのではないか。そう思っている人は、意外と多いのではないか。わたしは、そう感じている。

 国葬儀会場の周辺で反対を唱えるのも自由、献花のために何時間もの行列に耐えるのもまた、それぞれの意思だろう。国葬や安倍元総理の政治実績に対する議論ももっとあっていい。

 ただわたしは、自由や主張や議論の前に、人としての思いやり、「情」があってほしいと思っている。


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