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文字を持たなかった昭和288 ミカンからポンカンへ(10)倉庫その後②

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 昭和40年代初め頃価格が下がったミカンに代え、接ぎ木してポンカン栽培に切り替えた状況について述べることにし、その状況を(1)から順に書いてきた。(7)では、たくさんのポンカンがカビてしまっていたミカン山の倉庫の状況について、(8)ではポンカンを作らなくなってからのミヨ子の回想などに触れた。

 そして(9)では、倉庫に使われていた石材が薩摩焼の名工沈壽官氏の窯に「嫁いだ」らしいことを書いた。そもそもなぜ、数十年前に建てた農家の倉庫に使われていた石材がそんなことになったのか、と言えば、同様の石材がいまでは入手困難だから、ということらしかった。

 そこで、間に立った人から「石材を譲ってほしい」と連絡を受けた和明(兄)に、石材そのものについて改めて尋ねてみたが「よく知らない」と返された。この分野にはあまり興味がなさそうだった。

 やむなくインターネットで鹿児島の石について調べてみたところ、この石材は「溶結凝灰岩」らしいことがわかった。かんたんにまとめるとこんな感じだ。

・鹿児島では古くから石材を利用した建造物がつくられている。
・鹿児島県の石材として代表的なものの一つに溶結凝灰岩がある。産地の名前をつけて小野石、花棚石、たんたど石などと呼ばれる。
・溶結凝灰岩は火山から噴出した火砕流が堆積したもので、自身の熱と重みで固まってできた(溶結) 岩石。(溶結していない部分はよく知られている「シラス」)
・鹿児島を代表する石材の溶結凝灰岩だが、近年は外国産や人工の石材に取って代わられ、採石もほとんど行われていない。
《出所:鹿児島立博物館「かがやく鹿児島の石たち」

 なるほど。以前は身近にあって活用されていた石材も、おそらくは効率化とコスト、産業構成や労働人口構成の変化から、地元で切り出すことはどんどんなくなり、いまはほとんど流通していないということだろう。

 沈壽官氏(窯)がどのような発想で鹿児島の石材を使おうと思ったのかわからないが、氏の祖先が半島から薩摩に連れて来られ、薩摩(鹿児島)に定着し名声をあげていく長い年月を考えれば、「地元の石材を」と考えるのは自然かもしれない。まして、いまや滅多に手に入らないものだ。

 ミカン山の倉庫はかなり大きかったので、石材も相当量使われていたはずだ。見る目のある人からすれば貴重なものだっただろう。祖父母や父母の代の労苦に十分思いを致してこなかった子供としては、恥ずかしくもあり、誇らしくもある。

 石材は全部でどのくらいあったのか確認しようもないが、ふたつだけ――石材はどう数えるのだろう――残してもらったそうだ。建屋をとっくに撤去した実家の敷地で和明が楽しんでいる家庭菜園、その一角に石材をベンチ代わりに据えてある。長さは1メートル前後、なかなか立派なものだ。これを人力で切り出すのはさぞや大変だっただろう、と改めて思う。

 ミカン山での代々の苦労あるいは喜びの残像が、僅かでも形として残されたのは幸いなことだ。

《写真》ミカン山の倉庫に使われていた石材(おそらく溶結凝灰岩。本文ご参照)

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