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文字を持たなかった昭和 二百五十五(正月料理)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)たちのお正月。前項では元日について書いた。続いてお正月にいただく料理について書いてみたい。 

 雑煮*の出汁は干し椎茸と鰹節でとり、淡口醬油で味をつけた(鹿児島ではかける醤油以外は淡口醤油を使うことが多い)。餅は角。あらかじめ茹でておいた八ツ頭――いまは里芋が多い――を出汁で温めてから椀の中央に置き、その上にやはり出汁で煮た餅を載せる。

 その他の具は白菜などの菜もの、かまぼこ、大豆のもやし、焼き海老といったところ。大豆もやしと焼きえびは鹿児島の雑煮に欠かせない。

 餅よりも八ツ頭の存在感が際立つところは、藩の財政強化のため絞り上げるように年貢米を取り立てられ、米はほとんど口に入らなかった薩摩の百姓の台所が透けて見えるようだ。海老も、武士階級は新鮮な車海老を使ったらしいが、庶民は安くて日持ちする乾物の焼き海老である。

 雑煮以外の正月料理と言えば、筑前煮ふうの煮物、金時豆の甘煮、そして「オバ」。オバとは晒し鯨で、オバイケとも言われる脂をとったあとの鯨の脂身だ。脂気はまったくなく、コリコリした食感とさっぱりした味わいが独特で、酢味噌でいただく。一説では数の子の代わりだという。

 これに「しおけ」と呼ぶおかずを添えた。「しおけ」とは本来酒の肴の意味で、お正月ならばさつま揚げやかまぼこ、「こが焼き」という巻かない伊達巻のようなもの、つまり練り物類を適宜切って皿に盛りつけた。

 これらの料理を、お正月の間なくなるまで食べる。バリエーションのつけようがない料理がほとんどでも、「食べ飽きた」などの「こまごっ」(不平、文句)を言うようなことはなかった。ご飯と味噌汁が基本のふだんの食事に比べれば、別格のごちそうであることは明白だったから。

 二三四(わたし)は大人になったいまでも鹿児島風のお雑煮にこだわる。焼き海老や豆もやしなど、鹿児島以外では手に入りにくい食材もあるが、「もどき」でもなんでも似たようなお雑煮をずっと作っている。醤油は、郷里の醤油・味噌製造会社「吉村醸造」の淡口醬油を使う。東京・有楽町にある鹿児島のアンテナショップでも手に入るのだ。もちろん帰省の折りには、醤油や味噌をごっそり買って帰ることにしている。

*ミヨ子たちは雑煮のことを「もっのすもん(餅の吸い物)」と呼んでいた。

※写真はわたしの元日の食卓。手前左から時計周りに、鹿児島風雑煮、お屠蘇(屠蘇散を清酒に漬けた)、数の子(オバは入手困難なので)、柚子入り紅白なます、「しおけ」(さつまあげ、紅白かまぼこ、「こが焼き」)

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