文字を持たなかった昭和 二百六十三(冷え)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の暮しぶりを書いている。ここ2カ月ほどは、暖房(囲炉裏など)や冬の衣服、姑のハル(祖母)が使っていた「桐灰」の懐炉など、冬の暮らしについて書いてきた。

 書きながらどうにも落ち着かないのは、ミヨ子が防寒らしい防寒をしていた記憶がないことだ。

 「冬の衣服、続き」で触れたように、夫の二夫(つぎお。父)はいつも元気で冬も薄着だった。ミヨ子は体がそれほど丈夫ではなく「元気で薄着」のタイプではなかったはずなのに、寒いからと特別着こむことはなく、まして懐炉なども使わなかった。農作業のとき軍手をつけたりはしても、外出時に手袋を使ったり毛糸の帽子を被ったりもしなかった。

 日差しが強い夏場に首元まで覆いのある作業用帽子を被ることはあっても、もともと柔らかい髪がぺたんこになるし、鬱陶しいという理由で、冬場に帽子を被るのは好きではなかった。せいぜい手拭いを「姉さん被り」にするぐらい。

 娘の二三四(わたし)も同じような理由で帽子は好まないから、ミヨ子の気持ちはわからなくもない。でも、冬場の農作業はもちろん、家事をしていても寒かっただろう、冷えは女性の大敵なのに。と、当時のミヨ子の年齢を自分が超えたいま、つくづく思う。このnoteでも何回か触れたが、もともと囲炉裏を使っていた昔造りの大きな家は、ほんとうに寒かったのだから。

 年をとってからのミヨ子は、若い頃の無理が祟ったのかいろいろな不調に見舞われ、いまに至る。自分の体を犠牲にして家族や生活を守ってくれたという部分も大きいと思う。そんな苦労に、子供としてどのくらい報いられているか。寒い季節になるとときどき自問する。
 

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