文字を持たなかった昭和412 おしゃれ(8) 「毛糸」

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これまで、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べてきたが、ここらで趣向を変えておしゃれをテーマにすることとし、モンペ上に着る服足元姉さんかぶり農作業用帽子帽子などについて書いた。時期は概ね昭和40年代後半から50年代前半だ。

 取り上げているアイテムは、「おしゃれ」というよりは中学の家庭科の「被服」という分類に近いとも思うが、このまま続ける。

 帽子で、鹿児島も冬は寒く、とくに二三四(わたし)が子供の頃は寒かったと述べた。では冬場の服はどうしていたのだろう。

 寒くなるとまずは重ね着した。まずは、シャツブラウスの上に毛糸のベストを着る。「昭和あるある」だが、当時は「チョッキ」と呼んでいた。もちろん子供用も紳士用も、だ。

 ベストで足りなくなるとセーターを着る。だいたいはシャツブラウスの上からだ。シャツブラウスは薄かったし、上から着るセーターも厚手ではなかった。ボタンのついたカーディガンタイプのものもあった。

 二三四が物心つく頃には化繊のニットも出回りつつあり、手入れに気を使うウールより化繊のほうが好まれた。ミヨ子たち地域の人びとは、ニット製品はすべて「毛糸」と呼んだ。「毛糸のチョッキ」「毛糸の帽子」という具合だ。薄手、厚手にかかわらず、冬場のふだん着、そして外出着にはやはり「毛糸」は重宝した。

 おしゃれ度について言えば、ミヨ子を(そして二三四たち子供も)含む地域の人びとが着ていたニットも、高くはない。これまでに何回か書いているとおり、購入できる場所も商品も、選択肢がきわめて限られたからだ。むしろ「あるものを着る」という感覚に近かった。とくにふだん着、ましてや作業着は。そして、汚れを防ぐためいちばん上には割烹着を着るのが普通だった〈182〉。

 手軽に着られるニット製品が増えるにつれ、家庭でニットを洗いたいという需要に応えて、ニット用の洗剤も売られるようになっていた。当時の他の衣類用洗剤同様粉末で画期的ではあったが、ニット用はそう頻繁に使うわけではないので、箱の中で湿気って固まり、いざ使おうというときになかなか出てこないのは困った。その系統の商品はいまも健在で、おしゃれ着用液体洗剤として売られている。

〈182〉割烹着については「おしゃれ(3) トップ」で触れている。

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