文字を持たなかった昭和405 おしゃれ(1) 体型、風貌

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これまで、生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて書いてきた(しばしばわたしの日々の雑感なども交えているが)。直近では、昭和40~50年代、ヨ子が嫁として仕え最期を看取った舅と姑の介護の様子を「介護」というタイトルで書き連ねた(当時の状況①まとめ)。

 ここで少し趣向を変えて、ミヨ子のおしゃれについて記憶する限りのことを残しておきたい。

 おしゃれと言っても、結婚してからのミヨ子は基本農作業一本やり、合間に慌ただしく家事と育児、という生活をずっと送ってきた。いまの人(?)がイメージするような「おしゃれ」とはまったく縁がない生活だったし、まして「すてきな奥さん」にはほど遠い。それも含めてミヨ子の来し方だ、という理解で書いてみることにする。

 おしゃれにはまず体型が重要だろう〈177〉。

 二三四(わたし)が子供だった頃、40代前後のミヨ子は、身長が150cmを少し超えた程度、体重は50数kgと、ふっくらした体型だった。いっしょにお風呂に入ったときの、肩から背中にかけてのやわらかい曲線が印象に残っている。

 子供を3人産んだせいか――いちばん上の子は死産だった――、お腹周りはよりふっくらしていて、腰もしっかり張っていた。しゃがんだ後ろ姿を見る度、子供心に「お尻が大きいなぁ」と思ったものだ。下腹部には盲腸の手術あとが大きく残っていたのも忘れられない。胸も豊かなほうだった。

 足は身長のわりに大きく、24.5cmサイズのズック靴を履いていた。その足で内また気味に歩いた。当時の女性は「着物を着るときのことを考えて行動する」よう躾けられただろうから、内またがスタンダードでもあった。二三四も「女の子だからガニまたに歩いてはだめだよ」とよく言われたものだ。

 ミヨ子が佇んでいるとき、上品とは言えないが、ガサツや粗野といった雰囲気とは無縁だった。いつも控えめでにこやかで、おだやかな物言いで――そうあるように努めていたのかもしれないが――、それが全体にも滲みだしていた。農作業のときも、男に負けずガシガシと道具を使い、大きな動作で働くおばさん、お母さんたちもいる中で、ちょっとだけ頼りない感じもあった。

〈177〉容貌や体型については「四十五(どんな人?)」「四十六(働きづめの体)」でも触れた。

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