文字を持たなかった明治―吉太郎13 明治の学制について①

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」と題し、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある

 小さな農村の農家に6人きょうだいの五男として明治13(1880)年に生まれた吉太郎は、学校に行けず読み書きができなかった、と前項で述べた。当時そんなケースは珍しくなかったことも。

 そこで明治期の学制について見てみたい。

 日本に近代的な学制が公布されるのは明治5(1872)年、初等教育は4年制の尋常小学(下等小学)から始まった〈234〉。終了後は、同じ尋常小学で4年制の上等小学へ進学、上等小学卒業時点で現在の中学校卒業に相当した。

文部科学省「学制百年史」学校系統図より

 ただし、当時は義務教育ではなく、下等小学ですらすべての子供が入学できたわけではないし、入学後もさまざまな理由で学業を続けられず中途退学――というより学校に来なくなる子供も多かった。〈235〉

 「さまざまな理由」の主たるものは経済面だ。学制ではまず教育施設と教育行政機構の整備を急ぎ、教育に充てる予算を確保したとは言えなかった。学費は「自前」である。「帳面」と呼ばれたノート――昭和一桁生まれのミヨ子も「帳面」と呼んでいた――や筆記具などもちろん、教科書も自前で買いそろえなければならない。つい10年ほど前まで労働力の一人、つまり稼ぎ手だった子供が、逆にお金をかける対象になるのだ。その転換についていけない親、教育の必要性を理解できない親が、とくに地方の村々では多数いたはずだ。

 また女児の場合は、田畑に出たりする母親に代わって子守や家事を、いまなら幼稚園に通うかどうかの年齢から行うのは当たり前だったから、昼間学校に行かれては家の中が回らなくなっただろう。「いずれ嫁に出す娘に金をかけて学問をつけても」という考えもあっただろうが、目の前の家事が滞る、という事情もあったはずだ。逆に、子供をおぶったまま授業を受けたり、学校に行かせてもらえないので子守がてら校舎の近くで「聴講」したり、という当時のエピソードもよく見聞する。

 ましてや上等小学へ進めるのは、極めて恵まれた家庭の、それもほぼ男児に限ると言ってもよかった。

〈235〉明治5(1872)年8月3日太政官第214号(当時の発布日は旧暦)
〈236〉よく混同されるが、義務教育の義務は「子供に教育を受けさせる義務」であって、教育を受けるのは義務ではなく権利だ。だからと言って教育を受ける権利を放棄していいとも思えない。
※図の出所:「学制百年史」学校系統図

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