文字を持たなかった昭和289 ミカンからポンカンへ(11)ポンカンはどこから?①

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 昭和40年代初め頃ミカンの価格が下がったことを受け、わが家がポンカン栽培に切り替えた状況について述べることにした。それを(1)から順に記し、倉庫に使われていた石材が薩摩焼の名工沈壽官氏の窯に「嫁いだ」らしいことと(9)、いまや入手困難になったらしい石材そのものについて書いた(10)

 以上がミヨ子たちのポンカン栽培に関するちいさな歴史なのだが、ポンカンについてもう少し書いておきたい。

 (3)で、二夫(つぎお。父)が「ポンカンはもともと台湾で作られていたこと、その後屋久島に伝わって作られるようになったこと、 」と語っていたと書き、二三四(わたし)も長年そう思い込んでいた。

 しかし日本におけるポンカンの歴史について改めて調べたところ――と言ってもインターネット情報ではあるが――こんな説明が目に留まった。

・原産地はインドのスンタラ地方で、「ポンカン」の名前の由来はインドの地名「Poona(プーナ)」とかんきつ類の「柑」からとったといわれる。中国へは唐代に伝わった。
・台湾へは、1796年(清朝期)に楊林福氏が中国広東省嶺南から台湾新竹州新埔へ移住する際に苗木を持ち込み、栽培が広まった。
・日本へは、明治29(1896)年に台湾総督(当時)の樺山資紀(すけのり)海軍大将が故郷の鹿児島県に苗木50本を送り、本格的に栽培が広まった。
《出所・JAPAN FRUIT ROAD 日本くだもの農協>ポンカン(柑橘)

 二夫の説明は外れているわけではないが、少し違う。とくに「鹿児島ではまず屋久島から」という部分は異なっている。本格的な栽培はまず南の離島で始まったということだろうか。

 それはともかく、二三四にとっての驚きというか収穫は、台湾から日本(鹿児島)へ苗木を送ったのが、鹿児島出身の台湾総督だったことだ。明治維新を経て国際的に一流の国家になろうとしていた日本は、明治28(1895)年に清国から台湾を割譲されたあと、植民地経営においても一流を目指すべく各界各分野から集めた有能な人材が、あるいは志を抱いた人材たちが自ら、遠く南方の新しい領土へ赴いた。

 亜熱帯気候には温暖な地方の出身者が適応しやすいだろうと、鹿児島をはじめ九州からの赴任者も多かったらしい〈145〉。したがって、鹿児島と台湾は距離が近いというだけでなく、人的交流という面からも縁が深かったはずなのだが、台湾の近代史を紐解いても、鹿児島出身者に関するものが突出して多い印象は受けない。

 ただ樺山資紀海軍大将は別である。なにせ初代総督だ。ただし、統治当初だった樺山総督時代は、突然政治体制が変わり、それも全島に影響するとあって〈146〉台湾人の抵抗も激しく、これをたびたび武力で「鎮圧」したため、総督としての樺山大将への後年の評価はあまり高くないように思う。そもそも、第二次世界大戦後の日本においては、武官への積極的な評価はためらわれるのが一般的だろう。

 そんな「武官」の樺山総督だが、ポンカンの苗木を、しかも着任間もなくの頃わざわざ「内地」へ送っていたのか、と個人的には強く興味を惹かれる。日本でも温暖な鹿児島なら栽培できると判断したのだろうか。あらゆる面で近代化を進める日本(内地)へ、農業分野でもいままでにないものを届けたかったのかもしれない。

 そのポンカンの苗木は、その後どんな経路をたどり定着したのか、しなかったのか。したのだとすれば、戦前から戦中はどうしていたのか。なぜ、戦後の温州ミカンブームが峠を越えるまで日の目を見なかったのか。わが家のミカン畑で接ぎ木された苗にはどんな歴史があったのか。

 時空の長い道のりを考えればとても興味深い。ポンカンの来し方についても、いずれもっと掘り下げてみたいと二三四は思うのだった。

〈145〉台湾に残った日本語の一部には、九州ならではの言葉もある。魚のすり身を揚げた食品を「テンプラ」と呼ぶのはその一例。
〈146〉清朝は台湾全島を統治下に置いていたわけではなく、西側の部分的統治のみで、台湾で原住民と呼ばれる先住民族が住む山地や東岸は放置されていたとされる。割譲に至る経緯と結果、そしてその後の統治にもいろいろな見方がある。

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