文字を持たなかった昭和459 困難な時代(18)やりくり

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えたことを書いている。ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方で、支出の抑制には限界があり、しかも農村ならではのつきあいから交際費はかかるため、家計は八方ふさがりだったこと、ツケで買い物することも多い中、娘の二三四(わたし)の学費もけっこうな負担になったこと、それでも生理用品までがまんしたことはなかったことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 当時のひとコマひとコマを思い出し、ミヨ子はいったいどうやりくりしてたのか、と二三四は考えてしまう。

 コメのようなまとまった収入が入っても、その多くはハウスキュウリでこしらえた借金の返済に充てたはずで、だいたい「まとまった」と言っても数百万円などではなく、いいところ百万円程度だろうと思われた。

 二三四の断片的な記憶と、あとになってミヨ子が思い出話として語ったことなどを総合するに、この時期ミヨ子はよく市場へ野菜などを持って行った。自家用の野菜を少し多めに植え、余ったぶん、というかむしろ出来がよいものを優先的に市場へ運び、現金化していたのである。その市場は、自転車で20分ほど走った先の隣り町にあった。

 地元の農協に出せばいいのに、と高校生の二三四は当初思った。市場に行くにしても、自転車の荷台に「キャリ」と呼ばれる作物収穫用のプラスチックケースを括りつけるのでは量が知れている。お父さんの軽トラに乗せればもっとたくさん運べるのに、と。

 しかし、ミヨ子にはミヨ子の事情があった。いやむしろ夫の二夫(つぎお。父)の事情かもしれない。

 農協へ作物を出荷すれば収入を捕捉されることがひとつ。だが二夫にとってもっと大事なのは、自分の名前が書かれたキャリに、雑多な野菜を詰め込んで農協に並べたのでは面子がつぶれる、ということのようだった。持ち主や出荷者の区別のため、キャリには太いマジックペンで氏名を書くのが習わしだったのだ(農協が決めた決まりだったかもしれない)。そもそも借金の相手先である農協に、「小金」を得るためにちょこちょこ顔を出すなど、気が進まないとしても無理はない。

 そのしわ寄せは、当然ミヨ子に来た。それが、自転車の荷台に野菜を詰めての市場通いである。

 温泉が有名な隣り町だったが、温泉街自体は斜陽になりつつあった。それでも自治体としてはミヨ子たちが住む町より規模が大きく、まだ「国鉄」の急行も停まり、往時ほどではないにせよ人の往来は活発だった。そこの市場なら、野菜もミヨ子たちの地元の農協より高く売れたのだろう。

 ミヨ子はむしろ活き活きと市場通いを続けた。自分が育てた野菜の価値が認められ、対価が支払われる、それも直接に。地元ならば常に「二夫さんがい(宅)の*」という枕詞がついて回るが、ここなら正真正銘自分のフルネームで「勝負」でき、評価は自分に対して向けられる。そんな経験は、若かりし頃に佐賀の繊維工場で働いて以来だ。いや、あの時期ですらたくさんいる女工の一人でしかなかった。

 市場でもらった代金が入った封筒を納戸の「秘密の場所」にしまいながら、ミヨ子は苦しいやりくりの中にも一筋の光明を感じていた。

*鹿児島弁:「〇〇が家」を短縮し「○○がい」と言うのが一般的。

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