文字を持たなかった昭和450 困難な時代(9)農業における地方格差

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えた頃のことを書きつつある。ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方で、支出の抑制には限界があること、しかし農村ならではのつきあいから交際費は出ていくこと、高校生だった娘の二三四(わたし)は大事なブランドもののソックスの破れを繕って履き、クラスメートに笑われたこと、など。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 前項では、収支バランスがとれず家計は八方ふさがりだった、と述べた。かと言って、もちろんミヨ子たち夫婦が働いていなかったわけではない。四季折々、というより四季を先取りした作業を含め、長年やってきた農作業は、こつこつまじめに繰り返していた。

 高校生だった娘の二三四も、田植えや稲刈りといった季節の重要な農作業は当然のこと、学校が休みの日は田畑を手伝うのは当たり前だった。平日は、帰りが遅い母親の代わりに夕飯の支度をした。入学後始めた部活をそのために1カ月ほどで辞めたことは「367 ハウスキュウリ(16)部活」にも書いた。

 そんなふうに、家族がある意味総出で田畑を耕しても、「これ」という決定的な収入がなければ農家は成り立たない、という構造が厳然と存在していたと思う。だから多くの農家は兼業を選んだ。いや、むしろ固定的な現金収入がなければ農業はやっていけない、という構造だったのかもしれない。

 少なくとも、地方においては。

 と断り書きを入れたのは、大都市近郊の農業(農家)の在り方はまったく違うことに、後年二三四は気づいたからだ。まず、高校卒業後福岡県内の大学に進学し、いわゆる都市近郊農家の屋敷がどこも立派なのを見かけたときに抱いた違和感が始まりだった。

 そして大学卒業後、首都圏で社会人生活を始めてからは「地方と都市近郊では農家を取り巻く経済構造はまったく違うのではないか」と思い始めた。例えば首都圏では、東京を中心に周辺地域のさまざまな情報がいっしょくたに取り上げられる機会が多い。周辺の県は東京にヒトやモノを提供し、相互に往来することで潤っているのが透けて見える。

 農業もしかり。テレビなどで「〇〇農家」――〇〇は具体的な作物である――という紹介で、周辺地域の農家が紹介されるとき、農家の屋敷は大きく立派で、車が家族の大人の人数分置いてありとても驚いた。なにより、単一の作物だけで経営が成り立つことに。

 大量消費地が近ければ、ほぼ単一の作物だけで収入が確保でき、あとは一般消費者と同じ生活に近いのは、よく考えれば当然だ。物流が発達した現在では、地方であってもそれに近い経営をし、かつ成功している農家も多いだろう。

 だが、昭和50年代半ばの地方の農村では、まだ「百姓は百(の作物)を生む仕事」と言われ、自給自足は一種の呪縛のように、農家の行動を規範していたように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?