文字を持たなかった昭和475 困難な時代(34)田んぼを手放す

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがり家庭内の雰囲気は重く気づまりだったこと、娘には高校卒業後地元で就職して家計を助けてほしいという両親の希望に反して、当の二三四(わたし)は仕送りを受けない方法で県外の大学に進学したことなどを述べた。

 家の中は夫婦ふたりになり支出は多少なりとも減った。とはいえ、稲作などひと通りの農作業をこなす繰り返しでは、ハウスキュウリでできた負債を返済する目途は立たない。どこかで大きな方向転換をすることが望まれた。

 しかし、農業に見切りをつけてほかの仕事に就くことを、夫の二夫(つぎお。父)は潔しとしなかった。なにより父親の吉太郎が一代で買い集めた田畑や山林だ。手放すなど論外で、自分の手で耕し続けるのが務めだと、ある意味頑なに信じていた。もっともこの頃までの農家の跡取りは、それが親孝行であり、共同体の中での役割でもあると自然に考えていたはずだ。

 ただ、当時すでに田舎の農地を買いたいという会社や人はまずいなかった。産業道路でも計画され、道路建設地の一部に自分の所有地が描き込まれて、国や自治体から相場以上の価格で土地を買い上げてもらえる「幸運」が転がりこんでくようなことは、何十年に一度、何千人、何万人に一人もない。九州新幹線の計画が報道され始めたときは、ミヨ子たちの地元でも「新幹線がうちの山を通ってくれたら」という話を冗談めかして語る人もちらほらいたが、その恩恵に与れた人は町内に一人もいなかった。

 一度だけ、国道に面した二夫の田んぼを買いたい、という話が持ち上がった。地元の自動車整備会社が、トラックなど大型車両も置ける倉庫兼整備工場を建てたいのだという。広くて形のいい田んぼだったので、この一枚があれば倉庫用地としてぴったりらしい。日当たりも用水の具合も良い田んぼで手放すのは惜しい。目立つ場所にあったから、売ってしまえば地域の中ですぐにわかる。二夫は悩んだが
「売ってほしいという人があるときに手放すべきだよ。全部の田畑を売るわけじゃないし」
とアドバイスする人が何人もおり、最後は決断した。

 その代価がいくらなのか、二三四はもちろんミヨ子にも正確なところは伝えられなかった。が、返済金の一部に充当でき、生活も少しだけ余裕ができた。

 その代わり、毎年家族で田植えや草取り、稲刈りをした田んぼには土が盛られ、大きく無機質な倉庫が建ち、大型車両が並べられた。もう稲を植えることはない、そもそも自分の土地でもない。ミヨ子は、そこを通りがかるたびに複雑な気持ちになったと回顧している。

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