文字を持たなかった昭和 番外(受験と懐炉、前編)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)が冬に着ていたもの家族の冬の衣服に続いて、姑のハル(祖母)が使っていた「桐灰」の懐炉について書いた。

 この懐炉については、二三四(わたし)にも忘れられない思い出がある。

 これまで書いてきた時代からずっと下った昭和56(1981)年の冬。高校3年生になった二三四は大学受験を迎えていた。折しも共通一次試験(当時。のちに大学入学センター試験、現大学入学共通テスト)の時期。毎年、センター試験の頃はドカ雪が降るなどとても寒い。

 その年も寒くて、それまで使ったことのない懐炉を祖母から借り、制服の下に着こんだセーターの胸元に入れて、早朝汽車――電化されてはいたが、みんな習慣的に「汽車」と呼んでいた――に乗り、めったに行かない鹿児島市のターミナル駅・西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)、通称「西駅」へ向かった。ちなみにわが家の最寄り駅「市来」から「西駅」までは、当時鈍行で40分以上かかった。

 試験会場は地元の国立大学・鹿児島大学。西駅から路面電車に乗り換えた先にあるが、電車に乗った記憶は抜け落ちている。生まれて初めて大学という場所に足を踏み入れる緊張からかもしれない。ただ、試験会場の中と、キャンパスの開放的な雰囲気は覚えている。

 試験1日目だったと思う。無事会場に入り自分の席やトイレの場所などを確かめ、いよいよ試験だと気合を入れ直したとき、ふと、懐炉が入っているはずの胸元が暖かくないことに気づいた。
「あれ?」
と金属製の懐炉を取り出してみる。暖かさはあくまで体温のそれである。
「もしや!?」
 懐炉を開けてみると、中の燃料の火が消えている。推測だが、下に厚手のセーターを着こんだ制服の上からしっかりコートを着ていたたため、懐炉が酸欠になって火が消えてしまっていたようだ。万事休す。(後編へ続く)

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