文字を持たなかった昭和 続・帰省余話32~識字力、ふたたび

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 今度は先だっての帰省の際のあれこれをテーマとすることにして、ミヨ子さんとのお出かけを振り返った。数年前郷里にできたグランピング施設に宿泊したときは、夕食に行く直前客室のトイレでミヨ子さんは「間に合わ」なかったりと、1泊の間にけっこう失敗してしまった。よかれと思って企画した親孝行のつもりのお泊りだったが、宿泊先でふだん使わない車椅子にずっと乗せていたため、ミヨ子さんの脚力の低下を招いたようで、二三四(わたし)は深く反省した。

 お泊りから帰った翌々日はデイサービスの日、送迎のスタッフの対応や施設での専門的なサポートに頭が下がった二三四だった。

 その次のデイサービスの日中、ミヨ子さんの孫娘・なっちゃん(姪)がやってきた。ミヨ子さんが住んでいる家は、数年前結婚したなっちゃんにとって実家にあたる。
「山形屋で大京都展をやってるんだけど、きれいなお菓子があったからばあちゃんに買ってきたの」

 山形屋(やまかたや)は、鹿児島県随一のデパートで県民なら知らぬ人はいない、「高級」「トレンド」の代名詞みたいな場所だ。見れば小箱に詰められたお干菓子。秋を題材にとっていて、紅葉や銀杏、キノコ、稲穂や米俵まである。蓋には小さな紙がかけられ「秋の山路」と印字してある。
「あ、みんなも食べてね。残りはばあちゃんに少しずつ食べてもらって」

 叔母の二三四の贔屓目を割り引いたとしても、なっちゃんは気立てがよく、人の気持ちがわかるやさしい性格だ。外見もかわいい。
 夕方、ミヨ子さんが帰ってきた。着替えたりしたあとリビングの座椅子に腰かける。なっちゃんが来たこと、おみやげがあることを話し、小箱を渡す。

「京都のお菓子だって」
「あら、珍しい」
「秋のお菓子だって。見て、紅葉、キノコ、米俵……」
二三四が説明するが、指先大のお干菓子はお年寄りが一発で視覚的イメージを得るには、かなり小さいようで、ミヨ子さんはいまいちピンときていない。それでも、ひとつひとつ違うことはわかったもよう。

「なんのお菓子だろうね」とミヨ子さん。
二三四はちょっと考えて答えた。
「もしこ、かな」
「もしこ*」は鹿児島弁で落雁(型菓子)を指す。お茶席で出すようなお干菓子そのものではないが、お干菓子の一種だろうからいいことにする。そしてキノコ形のをひとつ渡して食べさせた。
「あとは少しずつ食べて、ってなっちゃんが」と二三四。

 ミヨ子さんはキノコが抜けたあとの小箱をしげしげと眺めたあと、掛け紙がかかった蓋を手にした。「あきのやまじ――。さんじ、かな」
二三四はちょっと驚いてミヨ子さんを見た。ちゃんと読めている!

 大変失礼なことに、二三四は自分の母親が文章を読み書きする習慣がないことから、ほとんど文字を読めないと、長いこと思い込んでいた。そうでもないと気づいたのはわりあい最近のことで、前回の帰省のエピソードでも記した(
)。ただ、読めてもかなと簡単な漢字の文章だと決めつけていた。

 しかし「秋の山路」をちゃんと読んで、別の読み方の可能性までわかっている。お母さん、すごい。いままで誤解していてごめんなさい。

 頭がいいと言われ続け、本人も出たがりだった夫・二夫さん(つぎお。父)の陰で、ミヨ子さんは静かにつき従っていた。ときとして「お前は頭が悪いんだから、オレの言う通りにしておれ」ぐらいのことまで言われてもいた。そして二三四ら子供たちは父親の言うことを真に受けていた。

 でも、ミヨ子さんは自分の能力を活かし、伸ばす機会がなかっただけなのだ。ということに、彼女が90歳を超えたいま二三四はようやく気づいた。ミヨ子さんが、読み書きや習い事など自分が興味を持つことに取り組めるような精神的、時間的、なにより経済的余裕に、もっと若いころ恵まれていたなら、人生の展開はまったく違っていたことだろう(結果的に、二三四たちは生まれていなかっただろうが)。

 ひとりの人として、女性として、人生の先輩として、なにより母親として、忍耐ばかりだったこれまでの人生に深い敬意を抱くと同時に、この先は少しでも自由であってほしいと、二三四は心から願う。

*鹿児島弁参考
【公式】鹿児島弁ネット辞典(鹿児島弁辞典)
※前回の帰省については「帰省余話」127

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