文字を持たなかった昭和414 おしゃれ(10) カーディガン

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これまでは、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べたが、ここらで趣向を変えておしゃれをテーマにすることとし、モンペ上に着る服足元姉さんかぶり農作業用帽子帽子、そして「毛糸」と呼んでいたニット製品などについて書いた。時期は概ね昭和40年代後半から50年代前半のことだ。

 そして、ミヨ子が着ていた「毛糸」の衣類で忘れられない二つのもののうち、前項で紫がかったピンクの「チョッキ」について綴った。本項ではもうひとつの「毛糸」、カーディガンについて述べる。

 チョッキの中で、ミヨ子は薄めの紫色が好きだと書いたところだが、カーディガンは深緑である。ラウンドネックに襟はなく、前立てには共布でくるんだ丸いボタンが並んでいた。特徴的なのは両方の前身頃のデザインで、曲線で蔦のような刺繍が施され、曲線の途中や先端には花のようにスパンコールが縫いつけてあった。当時の衣類は「ちょっとおしゃれ」にするために、よくスパンコールを使っていたように思う。

 このカーディガンもチョッキ同様、ミヨ子がいつ頃どこで買ったのか、二三四(わたし)は思い出せない。チョッキより前から着ていて、チョッキよりも大事にしていたはずだ。なぜなら、チョッキは着古していくうちにふだん着に「格下げ」されたが、カーディガンは本当のお出かけのときにしか着ていなかったから。ミヨ子がこのカーディガンを着るときは「気合が入ってるな」と思ったものだ。

 そしてまた、チョッキ同様このカーディガンも、取り壊す前の実家からミヨ子といっしょに新たな住まいとなる長男(兄)宅へ持ち込まれた。以降も「お出かけ」にしばしばお供している。

 何年か前、それこそ「お母さんが元気なうちに」と、二三四が県内随一の高級ホテルに連れて行って泊まったときも、孫娘(姪)のなっちゃんが「あそこに泊まるなら」とミヨ子のタンスを覗いてコーディネートしてくれ、黄色が基調のスカーフを合わせて送り出してくれた。

 それにしてもミヨ子の物持ちのよさには感嘆する。チョッキもカーディガンも、いったいなん十年着ているだろう。もう人生の一部として手放せないのかもしれない。じっさい、いろんなことがあった長い時間を共にしてきたのだ。もっと新しい衣類でおしゃれしてほしい気持ちがないではないが、こ
んな生き方もあっていい。

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