文字を持たなかった昭和446 困難な時代(5)「ぎいはい」

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えた頃のことを書いている。楽しい内容にはなりそうもない。前項までに、ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方で、支出の抑制には限界があることを述べた。

 どうしても削れない支出、しかも比較的高額でかつ不定期なものとして、鹿児島弁でいうところの「ぎいはい」があった。イントネーションをあえて表現すれば、「ーはぃ」のように頭を強く高めに発音したあと伸ばし、後半はやや下がって最後は軽く発音する。

 「ぎいはい」の「ぎい」は「義理」、「はい(張り)」は調子を整えるための接尾語だ。義理のための支出、つまり交際費である。

 狭い範囲に近親者が多く住んでいるうえ、昔から近所づきいあいが助け合いでもあった農村地帯では人間関係が濃密だ。町内――この場合自治体としての町(ちょう)――には、役所や学校、幼稚園、農協などの主要な組織はほぼひとつしかないから、どこに行っても同じような顔ぶれになる。ことに農業関係の集まりとなるとほぼ固定メンバーだ。

 そんなコミュニティにおける冠婚葬祭は、少なくとも同じ農村地区どうしならほぼ全員が顔を出したし、ちょっと顔の広い人なら他の地区や業種のそれにも呼ばれたり、自ら足を運んだりした。そして、農協や地域の「役」を引き受けることの多い夫の二夫(つぎお。父)は、その「ちょっと顔の広い人」の部類に入っていた。

 結婚式はさすがに招待されないと行かないが、誰それの家族のちょっとしたお祝い程度なら、挨拶に上がるのは不自然ではなかった。葬祭となると機会はいくらでもあった。そんなときは必ずご祝儀やお香典を包まねばならない。もちろん、結婚式の正式なご招待を受けたら、礼服を着て相応のご祝儀を包んで参列する。

 さらにお中元、お歳暮である。贈り物でいちばん多いのは焼酎だったが、気の利いた人だと食用油や洗剤の詰合せなどを贈ってくることがあった。贈ってきた先には必ず返礼するうえ、こちらから知恵を絞った品を贈ることもあった。

 それらはすべて現金支出である。

 いわゆる盆暮れには、ミヨ子たちの家の床の間にも届られた品が所せましと並んだものだが、
「これを全部お返ししないといけないんだよねぇ」
と、ミヨ子は誰にともなく呟いた。

 さらに、二夫が「役」を引き受けている組織の、たとえばメンバー間の調整などのためにかける電話代は当然持ち出しである。町内(「電電公社」当時の市内局番が同じエリア)の電話代は3分10円の時代だったとは言え、回数が重なるとばかにならないし、二夫自身話し好きで長電話でもあった。用事にかこつけて長々と世間話をしている父親を見るともなく見ながら、二三四は「電話代が上がるのに」と不満だった。

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