文字を持たなかった昭和494 酷使してきた体(7)体質遺伝(心臓の病気)

昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これからしばらくはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記していくことにして、もともとあまり丈夫でなかったことや、農家の嫁としては多少の不調はがまんせざるを得ない背景があったこと、続いて病気などの三つの痕跡として、若いころの紡績工場勤務の際にできた下肢静脈瘤工場で機械に指を挟み指先が少し欠けていること、そして妊娠中の盲腸切除の痕について述べた。

 そして、前項で体質遺伝としての目の病気に触れたが、今回は心臓の病気について記しておきたい。総称しては心不全と呼ばれる心臓の不調も、目と同じく実母のハツノから譲り受けるであろうと、ミヨ子は日ごろから考えていた。

 ハツノの心臓については、娘の二三四(わたし)に印象深い思い出がある。二三四が幼稚園か小学校の低学年頃だから昭和40年代前半、同じ集落にあったハツノたち祖父母の家に「お泊り」に行った日の夜のこと。夜中にトイレに立ったハツノがドアの向こうで呻いていた。心配して中を覗くと、和式トイレの段差の部分に腰をかけた状態で心臓のあたりを押さえて、苦しそうな息をしているのだった。

 救急車までは呼ばなかったが――救急車を呼ぶもなにも、祖父母の家はもとより集落のほとんどの家に電話はなかった――、おそらく病院には翌日行ったのだと思う。心臓が悪いのだと、あとで聞かされた。

 ミヨ子はこの「心臓が悪い」ことも自分に遺伝しているのではないか、と思っていた。ことに心配ごとがあって考えこんでいる夜など「胸がドキドキする、ばあちゃんの遺伝かもしれない」と不安がった。

 目や心臓の「遺伝」を心配していたミヨ子は、町(ちょう。自治体)の健康診断の通知が来ると、律儀に検査に行った。不調は少しでも早く発見したいという気持ちと、「二十四(療養)」などこれまでも何回か書いたとおり、医師というか医療への絶対的信頼があったからだ。

 幸い、健康診断でミヨ子に心臓の不調が見つかることはなかったし、その後も93歳になる現在まで、心臓の病気で病院のお世話になったこともない。「転ばぬ先の杖」がうまく働いたというより、遺伝への不安がそもそも杞憂だったのかもしれない。


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