文字を持たなかった昭和364 ハウスキュウリ(13)整枝と摘葉

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリについて述べており、労働力としての当時の家族構成想定外、ビニールハウスの場所規模構造苗の植えつけ手入れの概要などを書いた。

 noteに書いている内容自体二三四(わたし)の記憶が中心なので、二三四が体験しなかった、あるいはあまり記憶にない作業の部分はどうしてもスキップせざるを得ない。本項からしばらくは、二三四が覚えている作業やその光景を綴っていく。

 植えつけたキュウリが育ってきたあと、手入れの場面はほとんど記憶にないのだが、前項「手入れなど」に書いた整枝や摘葉の作業は、ぼんやりだがイメージがある。いずれも、養分を土からや光合成で得られた養分を、必要なところだけに集中させるために行う重要な作業だからかもしれない。とくに、主な枝に養分を集中させるため側枝を落す整枝は、スイカのときも同様の作業が行われていたから、理解しやすかった。

 一方で、新葉や新芽にも日光がすき間なく当たるように古い葉や日の当たらない葉は落とす摘葉は、キュウリに特徴的な作業のように思う。なにせ、キュウリの成長は早いのだ。

 これらの、養分管理と言っていい重要な作業の主役は、もちろん二夫(つぎお。父)だった。剪定鋏を手に不要な枝を見極めたり、大胆に葉っぱを落したりは、いかにも男性的な仕事でもあった。ミヨ子も手伝っていたとは思うが、判断に迷う箇所は二夫に尋ねていたはずだ。うっかり間違うとあとで小言を食らうから。

 剪定鋏をパチンパチンと鳴らしながら
「ここの枝は伸びたらいけないから切ってしまうんだ」
と説明する父親の姿を、ぼんやりと思い出す。その姿がスイカのときほど鮮明でないのは、まだ人生の経験が少ない子供のときほど作業が新鮮でなくなったせいか、ハウスに足を運ぶ時間があまりなく、同じ場面を繰り返し見ていないせいか。

 あるいは、これが主な理由だといまなら思うのだが、この頃には二三四は自分の父親を遠ざけたい気持ちが強くなっていたせいかもしれない。そのへんの微妙な感情は、「いつか」書きたいとは思うが、とりあえず原因分析の一部にとどめておく。

《主な参考》
【施設栽培】ハウスできゅうり栽培!促成栽培・抑制栽培の時期やポイント | minorasu(ミノラス) - 農業経営の課題を解決するメディア (basf.co.jp)


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