番外 天皇皇后両陛下ご成婚30年に寄せて

 30年前、平成5(1993)年の今日、当時の皇太子徳仁殿下と小和田雅子さんの結婚の儀が執り行われた。雅子さんはジューンブライドでいらしたのだ。当日の雨はパレードの前には上がった。

 改めて記すまでもないが、雅子さんは将来を嘱望されていた外務省のキャリア官僚だった。ご成婚前年の秋から海外勤務に入ったわたしは、当日のパレードや関連のフィーバーぶりはNHKの衛星放送で観たのだが(インターネットはまだない)、まだ日本にいる間、いわゆるお妃選びの報道やその中で絞り込まれた雅子さんに関する情報などは、一般的な興味の範囲として見聞していた。

 いや、一般的な興味を超えていたかもしれない。なぜなら、わたしより1学年下で、男女雇用機会均等法(以下「均等法」〈159〉)施行翌年の1987年に入省した雅子さんは、取り沙汰されるお妃候補の中でも別領域の人という印象であり、同世代の女性にとって、彼女こそキャリアウーマンの王道を行くべき人だ、と思わせた。

 均等法施行により、制度上・表面上の変化はたくさんあったが、女性、とくに働く女性を取り巻く環境はそれほど大きく変わったように思えなかった。戦後の民主主義教育の中で男女平等を教え込まれ、学生時代までは往々にして男子よりも優秀な成績を収めてきた女子が、社会に出たとたん補助的業務の枠に押し込められる。

 さすがに今や死語だが「お茶くみ、コピー取り」は女性の業務であり、「できるOLを目指す」〈160〉といった出版物の中で、「来客時のおいしいお茶の入れ方、お茶を出すときのマナー」が一項目として成立していた。男性と伍して長く働こうと思えば、たいていは結婚か仕事かの二択を迫られた。

 そんな中で多くの女性が、自立したい、働く社会人として認められたいともがき、試行錯誤を続けていた。

 背景となる社会規範や人々の意識にはいまも変わらないものが多々あるが、「キャリアウーマン」はわたしたち世代の女性にとって、すべてではないにせよ大きな目標のひとつであり、雅子さんは、雅子さんこそその中心を歩いていける人だと、勝手に思っていた。

 だからというわけではないが、官僚としてのキャリアから完全に離れて――「捨てて」と理解した人も多かったはずだ――、皇室という「家庭」に入ってしまわれることには、一種の失望と無念さを感じた女性は一定数いたと思う。わたしもその一人だった。

 衛星放送で観たご成婚のパレードは晴れやかで、オープンカーの皇太子殿下の隣でお手を振る雅子妃の笑顔は美しく、心から幸せそうだった。まさに輝いて見えた。不遜な言い方だが、こういう形に収まるのもひとつの人生かもしれない、と納得もした。

 しかしその後のいわゆるバッシングや、愛子さまご誕生後も続いたさまざまな批判、適応障害という診断と長い長いご闘病、秋篠宮(皇嗣 )妃紀子さまとの(勝手な?)比較など、雅子さまが皇室に入られてからの年月はけして平坦とは言えなかった。少なくともいち国民の目から見ていて。

 同世代の女性としては、しばしば辛い気持ちとともに報道や解説のひとつひとつを受け止めた。ご成婚のときの自然なはじけるような笑顔は消え、皇太子妃という身分に合わせるためのような硬い笑顔で会見や行事に臨まれる姿もあった。その中で「あのまま外務省キャリアを続けていたら、もっと違う道があったはずなのに」という思いは、必ずのようにつき纏った。自分のことでも、自分に近い人でもないのにもかかわらず。

 大きな節目は、平成から令和への代替わりだったように思う。祝賀パレードにオープンカーで臨まれた雅子皇后は、沿道の人々の歓呼に手を振ってお応えになった。感激のあまり涙をぬぐわれる仕草もあった(わたしも沿道の観衆の一人だった)。

 令和に入ってからは公式な行事へのお出ましが増え、海外での公務もこなされるようになった。少なくとも報道を通して拝見する雅子さまは、落ち着いて、ご自身の本来の魅力を十分に発揮されているようにお見受けする。一方で、愛子親王を交えての場面ではとてもリラックスした表情をお見せになる。そのひとつひとつに、わたしは心から安堵する。

 ご成婚30年に合わせて当日のパレードの映像がしばしば流されている。わたしなどには思いも及ばぬことながら、30年間のあれこれ、そのときどきのお気持ちと支え合ってこられた関係を想像し、どれほどの葛藤や闇をくぐりぬけて来られたのだろうと思うと胸が熱くなる。それは、同じ時代の同じだけの時間を生きてきた者、ことに同世代の女性ならではの感慨だろうと思う。

 雅子さまによってキャリアウーマンという概念は強化されたとも言える。皇室に入られたことは、日本の家族制度や家族観を考え直すきっかけにもなっただろう。その後のお姿は、ときに批評の、ときに擁護の、ときに下司な関心の対象でもあった。つまるところ、皇室(雅子さま)は国民とともにあったし、いまもある。そして国民も皇室とともにあるということなのだな、とつくづく思う。

 以前よりもおだやかで自然な笑顔が増えた雅子さま。30年の積み重ねの上に、誰にも創れないキャリアを重ねていっていただきたいと願う。誰よりも深く理解してくださるご家族とともに。

〈159〉昭和63(1985)年制定、翌年施行。職場における男女差別を禁止し、募集、採用、昇給、昇進、教育訓練、定年、退職、解雇など、多くの面で男女とも平等に扱うことを定めた。女性の夜間勤務も可能になった。「保母」が「保育士」、「看護婦」が「看護師」、「スチュワーデス」が「客室乗務員」等、職業の呼称でも性差が解消された。
〈160〉オフィスレディー(Office Lady)という和製英語の略。もう少し前はビジネスガール(Business Girl)略してBGと呼んでいたらしい。性差が明確なこんな呼称は、もう現れないだろう。

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