文字を持たなかった昭和443 困難な時代(2)ワンマン

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 その一部として、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えた頃のことを書こうとしている。内容も書く作業自体も楽しくはなりそうもないが、記録として残しておきたいと思う。

 困難を招いた主要因はハウスキュウリでこしらえた負債だが、その返還という大問題をどう解決するかは、夫である二夫(つぎお。父)の一存にかかっていた。そもそも、ものになるかどうかわからなかったハウスキュウリの開始を決断したのは二夫であり、その後始末は二夫がつけるべき、と第三者的には言えるだろう。が、日々の生活は関係者、つまり家族で担わなければならない。厳しい言い方をすれば、二夫が甘い見通しのまま始めた事業の尻ぬぐいを、家族で背負う羽目になったのだ。 

 しかし、そうなったことに対して、二夫から家族に詫びや労いの言葉はおろか、今後こうこうしたいと思う、大変だろうがいっしょにがんばってほしい、といった話は一切なかった。二三四が知らなかっただけでミヨ子に対して話をした可能性はゼロではないが、この一組の夫婦の関係性において、夫の側が具体的な提案で以て妻の協力を仰ぐなどということはあり得なかった、と二三四は思っている。それくらい二夫は常に「ワンマン」であったし、男尊女卑でもあった。

 ハウスキュウリ失敗の遠因はまさにそこにあるとも言えるのだが、失敗を自らの口に出して認めることを、二夫はしたくないというより「できなかった」のだろう。地域で頼られ、家庭内では絶対的権威である自分の価値を自ら下げるようなことは。

 二夫の名誉のために付け加えれば、男尊女卑は鹿児島(薩摩)の社会の基本的な思想、システムである(少なくともここに書いている頃の社会ではそうだった)。誰もが「女性は男性の意見、決定にしたがうもの」と言い、考え、そのとおりに動いた。心の中で反発したり疑問に思ったりしても、家庭や地域の共同体の秩序を保つことのほうが優先された。――ほとんどの場合。ちなみに鹿児島ではそれが突出していたかもしれないが、地方の農漁村においては大同小異だったのでは、と思われる。

 そんな社会において当時の男性は、大なり小なり頼りがいがある男であることを求められた。家庭を持ってからは大黒柱であらねばならない。そんなことを望まない男性にとっては負担であり、ときに苦痛でもあっただろうが、「かくあるべし」という常識と期待を正面から裏切ることは難しかったはずだ。当時としては珍しい一人っ子だった二夫は、物心ついた頃から跡取りとしての期待とプレッシャーも受けていたであろうことも、想像に難くない。

 娘である二三四の個人的な気持ちを付け加えておくと、他界して10年以上たつ父親に対していまだに厳しい目を向けているわけでも、恨んでいるわけでもない。疎ましく思った時期は長かったが、ある時期からそれも徐々に「和解」できたし、その後は比較的安定した関係を維持したとも思う。

 ただ、だからと言って当時の困難な状況をすべて水に流したわけでもない。ことに、noteを始めてミヨ子寄りの視点から過去の経緯を振り返るようになり、ミヨ子に代表される昭和の女性がいかに理不尽な立場に甘んじざるを得なかったか、ということも実感する。

 その「理不尽」さを生き抜いた例として、ミヨ子の場合を書き残しておきたいと二三四は思っている。

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