文字を持たなかった昭和497 酷使してきた体(10)自転車での転倒①

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 しばらくはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記していくことにして、もともとあまり丈夫でなかったこと、体にあった病気などの痕跡(下肢静脈瘤工場で機械に指を挟み指先が少し欠けた妊娠中の盲腸切除の痕)、体質遺伝への懸念、体にも影響を与えたであろう心配性とそこからくる不眠などについて述べた。

 ここからは、働き盛りを過ぎてからの体の状況について記してみたい。ひとつめは自転車での転倒である

 「困難な時代(18)やりくり」で取り上げたように、ミヨ子は家計を助けるために季節の野菜などを隣町の市場へ持ち込んだ時期があった。車の運転ができないので必然的に自転車になった。市場が近ければもっとたくさん積めるリヤカーや一輪車を使ったかもしれないが、市場が農村の中にあるわけもない。

 つまり、夫の二夫(つぎお。父)といっしょの移動でない限り、自転車か徒歩というのがミヨ子の主な移動手段だった。バスは通っていたがバス停まで10分ほどかかったし、バスに乗るのは「よそ行き」の手段だ。

 ことに、娘の二三四(わたし)が家を出てからは自転車がミヨ子の移動手段のメインになった。というのも、二三四が県外の大学に進学してからは、最寄り駅までの通学に使っていた自転車が必然的に空いたからだ。

 赤く塗ったママチャリで気恥ずかしかったが、前かごだけでは大した運搬量にならなくても、荷台に「キャリ」と呼ばれる収穫ケースをくくりつければかなりのものを運べた。自転車で10分くらいのところにある農協系のスーパーにも、自転車ならば広告で安売りを見かけたときも気軽に立ち寄って、多めに買って帰ることができた。(へ続く)


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