文字を持たなかった明治―吉太郎22 大家族⑧戸主の死

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」と題し、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある
 
 明治13(1880)年生れ、当時数多いた「子だくさん家庭の跡継ぎではない男児」の一人だった吉太郎はどんな人生を歩んだのかを探るため、まず家族の状況を見てきた(大家族①)。手元にある除籍謄本のうち二番目に古いもの(便宜上【戸籍二】とする)によれば、もともと6人きょうだいだった吉太郎たち一家に家族が増えていき、戸籍に記載された人は23人に上っている。ただし生まれた子供の何人かは早逝し、その母親までが亡くなることもあった。

 中でも二三四(わたし)の関心を強く惹いたものを、【戸籍二】に関する事項の最後に記しておきたい。それは6人きょうだいの長男・仲太郎(萬延元年、1860年生れ)の死亡である。

 源右衞門が亡くなり、仲太郎が明治30(1897)年3月に家督を相続して以降、【戸籍二】には「前戸主」の次の欄に「戸主」として並べられているわけだが、家督相続に関する記載の次の行に突然こう記載されているのだ。

 「大正拾四年参月四日午後参時 肝屬郡内之浦村岸良千四百四拾七番地二於テ死亡 同居者某届出 同月九日内之浦村長松下嘉納次受附 同月拾四日送付」(註:1925年。文中に入れたスペースは原文にはない。届出者名は記載があるが、ここでは伏せる。)

 肝屬郡内之浦村とはのちの肝属郡内之浦町、その後の合併により現在は肝付町となっている。ロケット打ち上げ基地のある町と言えば、ご存知の方も多いかもしれない。

 これまでnoteに何回か書いてきたとおり、吉太郎たちの生地であり二三四の故郷でもある小さな集落は、薩摩半島の中部から北部寄り、東シナ海に面した海岸線を有する西市來村(明治期当時)に含まれる。いっぽう内之浦は、大隅半島の東南部、黒潮が流れ込む志布志湾の一角にある。鹿児島県民の感覚で言えば、県地図を北西から南東へ斜めに線を引いた反対側に近い。

 交通手段が限られた当時、仲太郎はこんな遠くまでどうやって赴いたのか。汽車を使うにしても全行程をつないでいたわけではないだろう。だいたい汽車賃だってばかにならないはずだ。かなりの部分は徒歩かもしれないが、一部でも誰かの馬車に載せてもらうような幸運があったのか。

 この地まで、何の用事でどのくらいの期間出かけていたのか。故郷からの同行者が誰かいたのか。死亡届出者として記載のある某の苗字を見る限り、集落や近隣の人のようにも思えないのだが、某とどういう関係だったのか。死亡届が本籍地(村)に届いたのはわかるとして、仲太郎自身の亡骸はどう葬られたのか。埋葬は土葬が主流の当時、火葬してお骨にするのは考えにくい。某は何か形見の品を届けてくれた、あるいは届ける手配をしてくれたのだろうか。(ちなみに某は男性である)

 そもそも、どういう経緯で亡くなったのか。わからないことばかりだ。

 はっきりしているのは、戸主の仲太郎は満65歳になる直前に、故郷から遠く離れた土地で亡くなったこと、仲太郎はそのとき(少なくとも戸籍上は)独り身だったことである。

 仲太郎が亡くなった経緯を、例えば二三四の父親である吉太郎の息子・二夫(つぎお)が話しているのを聞いたことはない。だが、いまもある「本家」でなら知っている人がいるかもしれない。それは別の機会に探すことにして、仲太郎が一家の戸主であった【戸籍二】の物語は、ここまでとしたい。

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