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トランス女性弁護士殺害予告で眠れずに考えたこと

私の立場と「女らしさ」の定義

私はいわゆる「トランス女性」です。しかし「心が女」とかそんな抽象的なことで何かの権利を主張したいわけでもなく、ただ市井で「女らしく」生きていきたいだけの人間です。

「女らしく」というのも今となっては「それ何?」みたいな概念でしょうけど、私なりに考えると、女友だちが「ミユキちゃんって女だよね」って言ってくれること――それが私の「女らしさ」の定義です。

すべての女性にそんなことを求めているわけではなく、私のことをよく知る女性がそう認めてくれるのでいい。そうであれば、私は女らしいということです。そういう「女らしさ」は今でも実在するのではないでしょうか。

「ただ女らしく生きたい」というが私の目的です。性別適合が目的ではないので、SRS(性別適合手術)を受けて性別変更をするつもりは今のところありません。それには大きな理由があって、「男性」時代にそうしないといけないと思い込んで人並みに結婚をしたのですが、配偶者を今では心から愛しているからです。同性婚が認められていない日本では、性別変更は即離婚となります。そんなことのためにSRSを受ける気にはなれません。

ただ死別して、私が生き残ってしまったとしたら、SRSと性別変更を考えるかもしれません(正直に言えばしたいのです)。

女らしく生きることと「心が女」は別物

「女らしく生きたい」ということは、たぶん「心が女」ということではないんだと思います。心が男か女か、そもそも心の性別があるのか――そんなことは誰にもわからないから、心の性別など決めようがないというのが私の考えです。女らしいかどうかは振る舞い、つまり行動でしか判断できないのです。

だから、私は「心が女だから、女湯に入れろ」なんて主張するつもりはありません。女湯に入れるかどうかが私の女らしさの基準ではないからです。「女だから女の行動として女湯に入る」というのは屁理屈です。自分が裸で女湯に入ったらどんなことが起こるか想像するだけで、それは「犯罪」だということぐらいわかります。

ただ、最近は男湯も入りにくくなっています。それはどうか許してほしいです。

波風立てずに普通の社会人として生きていたいだけ

陰で何か言っている人はいると思いますし、ましてや知らない人から見たらただの「キモカマ」なのでしょう。とはいえ女子トイレを使うなど、人様に迷惑をかけるような行為は慎んでいます。できるだけ波風立てずに生きることを心がけているのです。

「オカマなんて見るだけでキモいんだよー」という人もいるんでしょうけれど、心優しい大多数の方は見て見ぬ振りをしてくださっています。実際、受け入れてくださっている方も多いですし、お仕事もフリーランスですが、女性の格好でお打ち合わせや取材に参加させていただいています。

私の立場や考え方はお分かりいただけたかと思います。キモイと思う人も多いかもしれませんが、無害な人間ですし、お仕事もして税金も社会保険料もちゃんと納めているのです。

ニュースを見て死にたくなった

そんな私が、女性の格好で出歩いているだけでメッタ刺しにされて殺されるのではないかと怯えて、眠れぬ夜を過ごしました。こちらのニュースを見たからです。

冗談でなくマジで怖くなったのです。このニュースを見て死にたくなったトランス女性はたくさんいるのではないでしょうか。私もまずは死にたくなりました。

次に思ったのは、この弁護士さんのようにヘイトクライマーととことん戦う覚悟を持つことでした。ただ、それをすることで、今は優しく接してくれている人たちが離れていく気もします。

「怖い。どうすればいいんだろう」と考えていると、とうとう眠れなくなってしまったのでした。

西村宏堂さんのことを思い出す

そういうとき私は、寝るのはあきらめて本を読むことにしています。昨晩は、いろんな本を読みました。LGBT関連の本も読みましたし、不安で眠れないときの対処法の本も読みました。人に好かれるにはどうしたらいいか、差別とはどういうことかといった本も読みました。

一晩に何冊も読めるわけではないので、つまみ読みしたのです。つまみ読みしては、これは今の私を救ってはくれないと判断し、次をつまみ読みするのです。Kindleの読み放題に入っているから可能なことです。

そのうちに自分と似たような人がどうしてきたか、どういう考えを持っているかが参考になると思いました。そこで西村宏堂さんのことを思い出したのです。ハイヒールを履く、メークアップアーティストでもあるお坊さんです。

彼に『正々堂々 私が好きな私で生きていいんだ』という著書があることを知り、さっそく購入することにしました。

差別者を思いやって許す

西村さんは差別する人間がなぜそうなるのか考えろと言っています。私は差別者の心情をしばらく想像してみました。その結果、まず話し合うのはムダ、戦うのも不毛、結局差別者のことを思いやって許すしかないという結論になりました。

別に差別者のことを上から見ているわけではないのですが、「いろいろな価値観や恐怖心に囚われて、異質な者を排除することでしか心が安定しない人たち」が、何だかかわいそうに思えてきたのです。

そんなことを書くと、「キモカマがそんなえらそうなことを言うのがまた許せない」という差別者がたくさん出てきてそうです。とはいえ、少なくとも自分らしく生きているのは私のほうで、差別者側ではありません。そう思うとかなり気持ちが楽になりました。

優越感どころか劣等感しかない

ただそこに優越感はまったくないのです。だって差別されているのに、どうして優越感を持てるのでしょう? 長い間、人目を気にしてコソコソ生きてきたのです。劣等感しかありません。

たとえ殺されても許す――私の「戦い方」はそれしかないと思いました。「だったら殺してやる」という脅迫コメントがつきそうですし、それは正直怖いです。しかし逃げずに受け止める。それがたぶん今の世界では、自分らしく生きることの代償なのでしょう。

そうしているうちに理解してくれる一般の人がひとりでも増えるかもしれません。何だがガンジーみたいな境地で、我ながらそんな偉人みたいなのはまったく似合わないと笑ってしまいます。

怯えて生きていくしかないのだろうか?

差別者からもLGBT活動家からも、両方から刺されそうですけど、自分は自分なだけだから、そんなことどうでもいいです。悩んでもしかたありません。

とはいえ怯えが消えたわけではありません。できればヘイトコメントはやめてほしいとも思います。

誰もが人と違って生まれてきているはずなのですが、セクシャリティに関する違いをどうしても許せない人がいるようです。そういう人が一人でもいる限り、怯えて生きていくしかないのだとあきらめるしかないのでしょうか?

そうでない世の中になることを切に望みますが、私が生きているうちは難しいのかもしれません。


自分のしたいことと向き合うことで、わたしはしあわせになれたと思っています。わたしの生き方を知って、ちょっとでも癒やされる人がいればいいなあという気持ちで書いています。スキやフォローは本当に励みになりますので、よろしくお願いいたします。