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「冬鶴奇譚」

 *

ああ、なんか死んでもいいかな、とぼんやり思った。

さんざん安酒を飲まされて頭が痛い。
薄暗く寒い部屋の中でぼんやりと光るスマホには2:00と表示されている。帰宅してから約30分、水は飲みたいし熱い湯を浴びたいし何よりも眠い、それなのに、ソファから一歩も立ち上がることができない。
見たいわけでもないのにぼうっと眺めているSNSを閉じて、立ち上がって、部屋の電気を付けてから浴室へ行く。たったそれだけのことをする気にならない。それよりも、今すぐ死ぬことのほうが建設的なアイデアのような気がした。死にたいわけではない。生きるのがめんどくさい。
眠い――眠りたくない。眠ったら明日が来てしまう。明日が来ればまた――いや、眠らずとも明日は来るし、どちらにせよ4時間後には家を出なければいけないのだが。

読むともなくスクロールしていた画面に、ふと「近代美術館、日本画展開催」の広告が流れてきた。黄ばんだ和紙に描かれた幻影のように美しい筆遣いの美人画がポスターに使われている。ああ、そうだ。死ぬ前に俺の鶴に会いたい――と、頭に浮かんだと同時に涙が出てきた。
たぶん、俺はもう、限界だ。

Fランクの大学をでてこの春に就職した会社がいわゆるブラック企業だと気付いたのは入社初日のことだった。
昼休憩もなくデスクでコンビニパンの袋を開ける先輩たちの姿に、やべえとこに来ちゃったかもしれない、と思った時には後の祭りだ。それから半年以上、怒られ、怒鳴られ、頭を下げては終わらぬ仕事を抱えて会社に泊まり込み、週一回の休日にはなぜだかやたらと親睦会だバーベキューだと連れ回されてゆっくりとものを考える暇もなく年末になってしまった。
今日も、いやもう昨日だが、朝から社長宅のクリスマスの飾りつけに呼び出され、午後にはそのまま社長の嫁が作ったまずい手作りピザパーティへとなだれこみ、ガリガリと焦げた生地をかじりながら社長の小学生の娘のバレエを見せられた。
何がくるみ割り人形だ、お前らの頭をカチ割ってやりてぇと思いながら「可愛いですね」と褒めれば、娘が毛虫でも見るような目で俺を見て「キモ」と呟くのが聞こえた。
ああ~、確かに俺はキモい。22にもなって童貞だし、彼女すらできたことがないし、風呂に入るのは週2回、床屋にももう三か月は行けていない。でもそれは大体のところおめえのオヤジのせいなんだ、俺がロリコンだったらバレエ教室のあとの帰り道で待ち伏せて事案(じあん)案件だぞこのガキ。という気持ちを笑顔に込めて、にたりと眺めたら彼女は「オエッ」と顔を背けて自室へと戻ってしまった。
そのあとはなぜか隣に座ってくる社長嫁、47歳元キャバ嬢豊胸Fカップ、の膝タッチをかわしつつ残飯を平らげ、夜の九時にようやくそこから追い出され、さあ解散だと思ったらそのまま先輩たちに安居酒屋へと連行された。社長一家への愚痴大会を聞きながら、飲み放題のワインやら日本酒やらをしこたま飲まされて今に至るというわけだ。

――もう限界なのかもしれない。
悲しいわけでもないのに涙がほろほろと零れ落ちてゆく。というか、悲しいとかつらいという気持ちはもはや感じなくなっている。とにかく疲れた、もう死にたい、でも死ぬってどうやるんだろう、めんどくさい。会社を辞めるのも、休むために連絡するのも、次の日に謝るのもめんどくさいから俺はあと4時間経ったらいつも通り仕事に向かうだろう。
いいな日本画展、俺も次の休みには鶴をちゃんと飾ってみようかな、まあできるわけないけどね、と思ううちに目を閉じていた。

  *

子供の頃から、祖父が床の間に飾っていた鶴の日本画が好きだった。
日本画というのは墨や胡粉(ごふん)、岩絵の具などを用いて描く日本独特の絵画だ。祖父は骨董を集めるのが趣味で、その中にはずいぶんと価値があるものも多いようだが、俺はそのあたりに全く詳しくない。
ただ、祖父が気に入っていた鶴の掛け軸だけにはどうしようもなく心惹かれた。
雪の積もる野に、ただ鶴が一羽、天を向き羽を広げようとしている。静から動へと移り変わるその一瞬を捉えた、美しい絵だった。
「おじいちゃん、この鶴すごくキレイだ」
 俺がそう言うと、祖父は満足そうに顎を撫でながら応える。
「そうだろ、お前は話が分かるな」
 もっと近くに寄って見ようとして、俺はハッと手を引っ込めた。以前、飾り棚の皿を触ろうとして叔父にひどく怒られたことを思い出したのだ。「いくらすると思ってるんだ、子供のオモチャじゃないぞ!」。叔父は祖父のいないところでばかり俺を叱る。
「やっぱりこれ、高いの?」
「ううん? これはな、狩野派の影響を受けた無名作家の作品で、実のところすごく安い。来年お前に買ってやるランドセルと同じくらいだな。でも、良い絵だろう?」
「うん、僕これ凄くすき」
「うんうん、絵はな、値段じゃなくて好きかどうかで見るもんだ」
得意そうに話す声を聞きながら、俺はその優美な姿を飽きもせずに見つめていた。

 祖父は機嫌のいい日には、掛け軸の前に日本酒をそなえて晩酌をすることがあった。
「鶴はお酒飲まないでしょ、変なの」
「ヤボなことを言うな。こんな良い女に、酒のひとつも飲ませんでどうする」
 にんまりと笑ってそういう。今思えば、歳の割に好色な爺(じじい)であった。当時はキャバクラだスナックだと飲み歩いてホステスをはべらせていたようだが、俺が中学に上がるころにはそれなりにおとなしくなり、鶴とひっそり飲み明かすばかりになった。
 ――変な爺だったよな。
 でも、俺は大好きだった。なにしろ男手ひとつで俺を育ててくれた爺さんだ。まあ、高校に入ってからはほとんど俺が家事担当だったけど。

今年の始めに脳梗塞で祖父が亡くなり、俺は形見分けにこの掛け軸を貰った。
両親は俺が幼い頃に亡くなっていたので、土地や不動産を含めた遺産相続に関しては俺の意思で放棄し、叔父と伯母にすべてを譲った。そうしないとうっかり寝首でも掻かれそうな気迫が彼らにあったからだが、祖父にはこれまで不自由のない生活費と大学までの学費を出して貰ったし、もう充分だ。祖父のコレクションの骨董に関してはふたりの目が光っていたが、この鶴だけは二束三文ということもあって、あっさりと譲ってくれた。
大学卒業までは猶予を貰い、その後俺は掛け軸一本を持って生まれ育った家を出て、就職先にほど近いこのアパートへと越してきたのである。
祖父と俺の住んでいた家は土地ごと売るつもりらしいが、他の資産も含め叔父と伯母の間でどのように分与するのかいまだに決着がつかないようだ。仲良くはんぶんこにすれば良いと思うが、まあ、それができるふたりであれば祖父ももっと気楽な老後を送ったに違いない。叔父の会社経営の失敗による借金と、伯母の贅沢好きには生前随分苦労をしたようだ。
 ともあれ俺も心機一転、立派な大人になるから見ててくれよなじいちゃん、と決意を新たにした日がもはや十年も前のことに感じる。ああ、俺ってなんにもできない人間だったんだなあ、今思えば、叔父と伯母の生命力とバイタリティには尊敬すら感じる。少なくとも、自分の生活を豊かにしようという心の健やかさがあるのだから。
今の俺にはなにもない。貯金もない、休日もない、生きる体力も死ぬ気力すらない――。
眠りに落ちる前から睡眠中の意識はなだらかにつながっていて、その合間に、昼と同じく会社で怒られる夢を見る。もうずっと夢ですら楽しいことをした記憶がない。そうして目覚ましが鳴り、虚無の中俺は朝を迎えるのである。

しかし、その日は何かが違った。
夢の中で俺は見渡す限りの田園に立っていた。しんしんと、静かに薄く雪が積もる冬の水田だ。あたりに人工物はなく、葉を落とした木々がただ数本、冷え冷えと立っている。そこに一羽の鶴がいた。
タンチョウヅルだ。雪景色に映える白と黒のコントラストに、鮮やかな頭頂の赤。細い足で優雅に立つ姿に俺は目を奪われた。鶴は幾度か雪の中へくちばしを寄せて何かをついばんだあと、真っ直ぐに首を上げて遠くを見据えながらふわりと音もなく羽を広げた。
――きれいだ。
頬を刺すような冷たい空気はきよらかで、少しでも声をあげたら彼女を驚かせてしまいそうだった。息をすることすらためらわれる、静謐(せいひつ)な冬の世界。
こころがすうっと凪(な)いだ。ただ彼女が飛び立っていかぬよう、どうかここに居てくれますようにと俺は祈る。永遠に続くようなふたりきりの時間の果てに、俺はうっすらと目を開いた。
目の前に、女がいた。
目が合ってゾクリと背筋が震える。なんて――美しい。
見慣れた部屋の天井を背景に、あおむけに横たわる俺の上に覆いかぶさるようにしてこちらを見下ろす彼女の顔の美しさに、俺はあらゆる疑問を奪われた。
「え。あ、」
声をあげようとした俺の唇に女がすうと人差し指を当てて微笑む。白くてしなやかな指だった。涼やかな瞳を縁取る濃いまつげが影を落とすのはやはり雪のように白い頬で、色彩のない姿の中でただひとつ、鮮烈に赤い唇がニィと三日月のかたちに引きあがる。
その赤が、次の瞬間、俺の唇に重なった。
「なっ……ん、」
 驚きは彼女の唇の柔らかさに一瞬で溶けた。
 ――甘い。
 吐息が口腔(こうくう)へ吹き込まれ、クラクラと眩暈がした。幻覚? 夢? とにかく、こんなことが現実のわけがない。
 舌が絡む。いくら俺だってキスくらいは、大学生の頃にしたことがあった。飲み会の帰りに同じサークルの女の子と……彼氏が浮気しているとかで、当て馬に使われた俺はそのあと追いかけてきたその男に殴られたんだっけ。そんなことはどうでもいいが、とにかく、今しているのはその時のキスとは全然、違った。
「はぁっ……」
 体温が低い、少し冷たい唇。薄くて柔らかな舌。なぜこんなことになっているのか意味が分からないが、一気に下半身へと血液が集中する。
「ふふ」
 唇が離れたと思ったら、彼女は俺にぴたりと体を重ねた。豊かな胸がむにゅっと俺の胸板に押し付けられる。耳元で息だけで笑う声が、涼やかで心地よかった。
 女が俺の下半身に触れた。なよやかな指が硬くなったそこへまとわりつき、それだけで達しそうになってしまう。
「ちょ、ま……あの」
 意識が飛びそうな夢見心地の中、なんとか言葉を発した。
「お、俺、初めてなんすけど」
 こんな時に言うセリフか、と思うが、こんな時以外では言うこともなかろう。
 彼女は一瞬目を見開いたと思ったら、次の瞬間くしゃりと破顔した。百合が咲き誇るような笑顔だった。
「大丈夫。優しくしてあげる」
 ――あ、優しい声。
 ふたたび唇が重なる。
 そして彼女の腕に抱(いだ)かれながら、俺は、生まれて初めての経験をした。

はたと目が覚めると、いつも通りの天井があった。一瞬遅れて、ピピピピピピ、と目覚ましの音が鳴る。
「ううーん、なんかよく寝たなあ」
俺はソファの上で身体を起こして伸びをした。
なんだか随分と良い夢を見た気がする、と思った次の瞬間、あれは夢ではないと確信めいた思いが湧いた。
そうだ、俺は、確かに昨晩女に抱かれた。
いや、おかしい。どう考えても夢だろう――馬鹿な考えを振り払おうとして顔に手を当てたとき、指先に、長い黒髪がまとわりついているのに気づいた。
夢――じゃない?
思わず顔を上げ、玄関に目をやる。確かにドアには鍵が掛かり、チェーンが掛けられている。立ち上がってベランダのカーテンを開いたが、そちらにもやはり鍵が掛かっていた。
「えっ、どういうことだ?」
その場にしばし立ち尽くしたときふたたびアラームが鳴った。
「やばい、こんなことしてる場合じゃない!」
とにかく考えるのは後回しにして、俺は慌てて会社へ行く支度を始めた。

  *

なんとか会社には遅刻せずに済んだが、その日は一日じゅう、あの女のことが頭から離れなかった。
――なんだったんだろう、あれは。
夢だと思うのが一番現実的だが、髪の毛の説明がつかない。ではあの女が実際に居たとして、どうやって部屋に入ってきたのだろうか。女が出て行ってから自分で鍵を閉めたのだとしても、そもそも侵入できたはずがないのだ。
帰宅した時に鍵を閉め忘れた――というのが妥当な説明だろう。俺は臆病なところがあって、戸締りには気を遣う方ではあるがなにしろ昨夜は酔っていた。
では、戸締りを忘れた俺の部屋に深夜、超絶うるわしい美女が侵入してきて強引に俺の童貞を奪った、ということになる。
「いやいやいや、あり得るのか? それ」
思わずつぶやくと、正面のデスクの笹山先輩がギロリとこちらを睨み付けてきた。
「アッ、サーセン……」
口の中でもごもごと謝罪し、俺は再びパソコンに向かう。
女のことで頭はいっぱいだったが、気分はスッキリと冴えていた。身体が軽いし体調もいい。これまでどよんと淀み、泥が詰まっていた頭の中へ冬の風が吹き抜けたような爽快感だった。
そのせいか思いのほか早く仕事が終わり、たまたま他に手を付けられる仕事もなかったので珍しく終電よりだいぶ早い時間に退社することができたのだった。

「はぁー」
白い息を赤い指先に吹きかけつつ、俺は自宅の最寄り駅で降りて帰路につく。
いつもは街灯の灯りしか見ることのできない駅前の商店街には看板のネオンが光り、未だ賑(にぎ)やかな人影があった。
その様子が物珍しく、普段は気に留めない路地にまで視線を走らせていると、ふと、一軒の居酒屋が目に留まった。北欧のカフェを思わせる店構えの前に藍色ののれんが下がり、それが絶妙のバランスでこ洒落ている。
『日本酒居酒屋』と銘打たれたその響きが妙に気にかかり、少し逡巡したのちに俺は「よしっ」と帆布(はんぷ)ののれんをくぐった。
「いらっしゃいませ」
店主らしき男性がカウンターの内側から発した柔らかい声にほっとしてカウンターへ腰を下ろす。どうやら、気難しい店というわけではなさそうだ。店内はあたたかな行灯(あんどん)の灯りで満たされている。
「お客さん、初めてですね。どうぞごひいきに」
人好きのする笑みを浮かべた店主が手書きのメニューを差し出してきた。そういえばろくに昼飯を食っていないのでひどく空腹だ。
鼻先に漂ってきたゆたかな出汁の香りに、ぐうと腹が鳴った。
「あの、実は日本酒があまり得意じゃなくて……フードだけ頼んでもいいですかね?」
日本酒居酒屋なのにこんなことを言ったら怒られるだろうか。おそるおそる尋ねると、店主はやはり微笑んで応えた。
「もちろんですよ。うちは食事も自慢なんです、ぜひ」
ほっと一息つき、改めてメニューに視線を落とす。
美しい筆書きのメニューの中から2、3品、おかずになりそうなつまみと、鶏雑炊を注文した。
少しして、「どうぞ」と暖かなお茶がカウンターへ置かれる。
湯呑を手で包み込むと、冷えた指先が温まってゆく。渋みの少ない、甘味を感じる緑茶だ。
「美味しい」
思わず口に出すと、店主は「そうだろう」とでもいうように微笑んだ。
揚げ出し豆腐、おでんの3種盛り。外が寒かったのでつい暖かいものばかり頼んでしまった。口当たりは優しいが、しっかりとうまみを感じる味付けだ。確かにこれは酒が進むかもしれない。ハフハフと熱い料理を食べ進めるうちにじんわりと汗を掻いてきた。
冷蔵ショーケースの中で冷えた日本酒の一升瓶が目に入って、ごくりと喉が鳴る。
「どうですか、一杯、お試しになります?」
その瞬間を見逃さず、店主がそう声を掛けてきた。
「あっ! は、はい。お願いします」
既にどうしようもなく冷えた酒が飲みたい気分になっていたので、1も2もなく俺は頷く。
「でも、俺全然詳しくなくて……」
ショーケースに並んでいるのは俺が聞いたこともない銘柄ばかりである。少し恥ずかしい気持ちになりながら頭を掻くと、店主は笑うでもなく自然な態度で「では、今のお食事に合うものをお選びしますね」と言ってくれた。
やがてことりと目の前に置かれたグラスに満たされた日本酒の名前を、残念ながら俺は覚えていない。ただ、一口くちに含んだだけで、それが今まで俺が飲んできた日本酒とはまったく違う種類のものだと分かった。
「おいしい」
思わず呟きが漏れる。これが本当の日本酒の味ならば、俺が今まで飲んできたものはなんだったんだろうか。
ふわりと上品な甘みが鼻腔(びくう)を抜けて花の香りになる。水のようにするりと喉を通るが決して弱腰なわけではない。心地良い酒気が食道から胃を刺激し、さらに食欲を増進させるようだ。
急いでおでんの大根を口に入れた。酒の残り香に出汁のうまみが溶けて、脳から多幸感(たこうかん)が溢れてくる。もう随分と長いこと忘れていた、ものを食すということの野性的な快感を思い出した。そうだ、本来、食事とは気持ちの良いものだ。酒とは心を躍らせるものだ。
店主に感想を述べることも忘れ、夢中で飯を食い、酒を飲み干して、俺は箸を置いた。
満たされる、というのはこういうことを言うのだろう。会計を済ませて店を出るとき、店主が「またいらしてくださいね」と声を掛けてくる。おれは「はい、また来ます」と力強く頷いた。
足取りも軽く帰宅した俺はシャワーを浴びた。しっかりと戸締りをし、誰も入って来れる状態ではないことを確認してベッドへもぐる。久々に日付が変わる前に眠ることができる幸福に目を閉じると、ほろ酔いだったせいもあってかすぐに意識が深い場所へ沈み込んでいった。
 そしてその深夜――また、彼女は俺のもとを訪れた。
「ふふふ」
 ――ああ、いらっしゃい。待ってたよ。
 きっと来てくれるのではないかという、変な確信があった。
「私に会いたかった?」
「会いたかった」
「良い子ね。うんと気持ちよくしてあげる」
 甘やかな微笑み。眩暈のするような口づけ。
 柔らかい腕が俺の背中を抱き、俺も彼女の細い肢体を抱きしめる。力を入れたら折れてしまいそうな華奢な背中に、さらりと黒髪が落ちる。
 その夜も彼女は俺のすべてを受け入れてくれた。いったい、どうして――問い掛けようとしてやめる。どうでも良いじゃないか、彼女はとにかく、ここにいるのだ。

それからというもの、彼女は毎晩俺のもとへ現れた。
暖かな肌と触れ合い、抱き合い、そして言葉を重ねてゆくうちに、俺の中で失われていた何かが少しずつ取り戻されていくような気がする。
なにより、セックスってこんなに気持ちよかったのか、と思うと純粋な喜びが湧いた。
もしかしてこれは色情霊というものなのか?
牡丹灯籠よろしく、俺は精気を搾り取られて死ぬのだろうか。そのわりに、体の調子は快調だけど。

「お先に失礼しまース」
俺は比較的仕事量の少ない毎週木曜日の夜に例の日本酒居酒屋に寄って帰ることに決め、その日も自分の仕事を終えて会社を出た。帰り際、何人かの先輩がぎろりと俺を睨んだのが分かったが、毎日定時にタイムカードは打ってあるのだから問題はないだろう。
相変わらず訳も分からず理不尽なことで怒られるし、社長は気分でコロコロと指示を変えるし、休日には強制的に連れ回されるが、週に一度の愉しみができたことで俺の毎日は見違えるほどハリのあるものになった。何よりも毎晩の彼女との逢瀬のこともあり、生きるのが楽しい、と思える時間が増えてきたと思う。
日本酒にも少しだけ慣れてきて、味の違いが分かるようになってきた。店主とは親しく雑談をするというほどではないが、その距離感がまた心地よい。
「はぁ~、今日の白子グラタン、めちゃくちゃうまかったなあ」
店からの帰り、ポカポカと温まった身体が冷えないうちに寝よう、と思いながら部屋のドアを開けて電気を付けたとき、ふと、我に返った。
――あれ、この部屋、めちゃくちゃ汚くないか?
別に、朝出た時となんら変わっているわけではない。その時と同じく乱雑な室内だ。それなのに、妙に落ち着かない気分になった。
洗い物が積み重なったシンク。ゴミがあちこちに転がる室内。テーブルの上に無造作に重ねられた郵便物。床に山になった洗濯物。
「……気持ち悪い。え、本当に? 俺の部屋、こんなだったっけ?」
床は髪の毛と埃だらけで、いつから掃除機を掛けていないのかもう覚えていない。見慣れた部屋が急に居心地悪く感じて、俺は思わずごみ袋を手に取った。
ペットボトル、燃えるごみ、空き缶、と分別しながら放り込んでいくと、あっという間にごみ袋はいっぱいになった。洗濯物を畳みながら、掃除機を掛けるのは明日にしようと思う。
次の朝、目覚めると俺は窓を開け放って部屋の空気を入れ替えた。今日は燃えるごみの日のはずだ。早速ごみ袋を3つ、集積所に持っていく。部屋に戻ったところで、上司に半休を願うラインを出した。そのまま通知をオフにして、うーん、と伸びをする。
「ああ、俺、ほんとに何やってたんだろ」

あらかたの掃除を終えてスマホを確認すると案の定上司から鬼電が掛かってきていた。かけ直しすることもないだろう、とそのまま会社に向かい、ドアを開けた途端に怒鳴り声が襲ってくる。
「てめぇ、何勝手に半休取ってんだ! 許可しねぇって言っただろうが! こっちこい!」
はあ、と頭を掻きながら、俺は上司の前に立つ。
「すみません、どうしてもやることがあったので」
頭を下げるが、向こうは当然そんなことを聞き入れるヤカラではない。
「いいか、ウチには有休なんてモンはないんだよ! 他のやつらに迷惑掛けた責任はどう取るつもりだ!?」
「はあ、でも俺も入社して半年以上経ってますし、法律では」
「法律は関係ない! ウチにはウチのルールがあるんだ。まだそんなことも分かんねえのか」
ははっ、と笑い声が漏れてしまい、慌てて手で口をふさいだ。
上司は鬼瓦のような顔をさらに赤くしてドンとデスクを叩く。
「なんだ、その態度は? お前なんかいつ辞めてもこっちは困らないんだぞ? 今すぐクビにしてやろうか? ああ?」
「あ、じゃあ、辞めます」
即座に応えると、鬼瓦はポカンと口を開いた。
「は?」
「今までお世話になりました。えーと、会社都合ってことでいいんですよね」
ピクピクと上司のこめかみの血管が震えている。
「ウチを辞めて、お前みたいなやつを雇う会社が他に……」
「あ、いやマジでそういうのいいんで。洗脳こえ~! アザーッシタ!」
ぺこりと頭をさげ、俺は脱兎のごとくその場から逃げ出した。
最後に「ちなみに全部録音済みっす!」と言い捨てて、俺はドアの外に出て非常階段を駆け下りる。誰かが追いかけてくるのではないかと思ったが、さすがにそんなことはなかった。
そうだ、帰りに商店街に寄って、夕飯の買い物をしよう。酒屋で気に入った日本酒を買い、彼女と一緒に飲もう。
鼻歌を歌う唇から白い息がふわふわと漏れる。ああ、俺って生きてる。これからも生きていこう、めんどうなら何も成し遂げなくたっていい。

帰宅した俺は、押し入れから掛け軸を取り出して綺麗になった部屋の壁に飾った。
その前に日本酒を入れたグラスを置き、そっと乾杯をする。
「じいちゃんの気持ちがやっとわかったよ。こんな良い女に酒の一杯も飲ませないなんてヤボだよな」

その夜、現れた彼女はニコニコと微笑んでいた。
「やあ、嬉しそうだね」
「ええ、やっと気が付いてくれたから」
長い黒髪が揺れる。
「君は鶴なの?」
そう訊ねると、彼女は一層微笑みを深くした。
「お酒をありがとう。好きな味だわ」
「うん、そうじゃないかと思ったんだ……うん」
彼女は俺の両頬を手のひらでつつみ、そっとキスをしてくれた。
その、甘く眩暈のするような感触をゆっくりと味わって名残を惜しむ。
「もしかしてもう会えないのかな」
「どうかしら、私にも分からない。また会いたいな」
「うん、また会いたい」
もしかして俺、じいちゃんと竿兄弟ってことかな、と思ったが聞かないことにした。世の中には知らない方が良いことというのもある。
彼女を抱きしめて、ありがとう、と囁く。
「私はずっとあなたの幸せを願ってるから、大事にしてね」

朝、目覚めると当然ながら彼女はいなかった。
そういえば掛け軸箱を床へ出しっぱなしにしてしまった。仕舞おうと手に取ったとき、ふと、その中に細く折られた紙があることに気付く。
取り出して広げてみると、それは祖父の遺言状だった。
そこには、実家の土地建物、そして美術品に関しては必ず全て俺に相続させるよう、そうでなければすべての財産を特定の慈善団体に寄付するように書かれていた。
俺は叔父と伯母の鬼のような形相を思い浮かべて眉をしかめる。
「ううーん、ちょっと面倒だけど……」
頑張ってみるか、と思う。何しろ俺は生きていくのだ、この先も。何はともあれ少しでも多く金は必要である。これが分かるようになっただけ、俺も大人になったということだ。

とりあえず家を取り戻そう、お前にはあの床の間が似合う。じいちゃんを思い出しながらふたりで酒でも飲もうじゃないか。
そう呟いて、俺は鶴の掛け軸を撫でた。

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