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慈悲

何度か坐禅をさせて頂いている禅宗の寺で、
以前、印象深いお話を聴かせて頂いたことがある。
それは、「大悲心陀羅尼経」(だいひしんだらにきょう)という経典の話で、
大悲心とは、「慈悲」という意味なのだと教えて頂いたことだ。

お坊さんは
「なぜ慈悲が大きい悲しみの心なのでしょう」と投げかけられた後、
次のように教えてくださいました。

「慈悲の『慈』という字。
この字は、草かんむりが大樹をあらわし、
その大樹から二本の糸が垂れて、悲しみの心を掬い上げるという意味なのですよ。」と。

その瞬間、心が震えるような感動を覚えた。
涙が溢れそうになって、ぐっとこらえながら聞いていた。

私の琴線に触れたのは、二本の糸。
温かい包容でも、屈強な力でもなく、
ただただ繊細さの象徴のような糸が二本…
それらが大きな悲しみを掬い上げるというまるで奇跡のような必然は、
糸だから為せるのだと、ストンと腑に落ちる瞬間があった。
そして、これは今気が付いたけれど、
大樹という存在の絶対的な安定感なくして、
この糸は存在し得ないことも。

その人の大きな悲しみは、その人のものそのものとして大事にされている糸がありながら、
その傍であたかも同じように心を寄せ、掬い取る糸がある。
どちらの糸もそれぞれに尊重されながら、それでいて共感で繋がり合い、
あのような繊細な糸が、大きな悲しみすら掬いあげ、慈悲へと昇華していく…

また、もしかすると糸は意図なのかもしれない。
大きな悲しみそのものを丸抱えするような意図と
同時に、その傍にただただ在る意図と…
その両方から掬いが生まれるのだろうか。

掬われた上澄みの中に、なにをみるのか。
水面に映る月のように、その上澄みに映る実像を感じたい。










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