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雑記 めっちゃ下書き放流day

今まで書いた下書きを供養するか。明日を愛するために。今回クソ長いので、覚悟を決めるかブラウザバックしてください。

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酒がアカンのではなく、その人が元々アカンのだということを酒が暴く。とは言うものの、薬物の影響で脳の認識が歪んでしまっている人間の言動が全てと考えるのは一体どうなんでしょうか?ただ自分の目の前がよく見えないままにそういう在り方をしているだけで、罪深いと言われるのは己自身を「正常」と名乗る多数派の暴力だと思うんです。

何が言いたいかと言うと、この記事を書いたときの記憶があんまりない。記憶がない、というのは有力な証拠となる条件にも、道理の正しさも足りないですけどね。へへへ。誰も私を見るな。帰れ。立ち去れ。行くべき場所に行け。

人生がとても辛い。死にたくないけど事故とかに遭って、合法的にベッドの上で安静にさせられたい。それで好きな友達とかがお見舞いに良いゼリーを送ってくれたりして。そんなことありえないんだけど。お見舞いとか来てくれるタイプの友達がいないから。いや、そもそもお見舞いっていう行為そのものが時代錯誤な考えのものなのか。

大人になりたい。もうすぐ20歳になるけど、20歳ってぜんぜん大人でもなんでもない気がしてきた。なのに世の中の20歳はちゃんと「大人」をやっていてすごすぎる。でも、色々言っても犯した罪はちゃんと重くなるんだよな。法律的には。急に気が変になったりしないように気をつけないといけませんね。気をつけられるかはわからないけど。

いっそ自分の知性が崩壊して、自尊心とかどうでも良くなればいいのに。中途半端な自我とエゴの塊。ほかの人間と比べると、あまりにも浅すぎる知性。人間強度が低い。メチャクチャになりたい。

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しかしながら、最近は文章を考えるタイプの作業は音楽を聴きながらやると全く集中できないことに気づいた。それだけ。

でも今日は絵を描けたよ。えらいね。センシティブな絵だから上げられないんだけどね。まあ、センシティブで周囲からの目線を考える必要がある絵だからこそ自分の好みを突き詰められるというか、自分の感情をそのまま絵の中に組み込みやすいという部分はあるのかもしれない。

お絵描きって楽しい、と久しぶりに思った。いい流れが来ている。

記事のタイトルの意味?「テトペッテンソン」か「君は実に馬鹿だな」ですかね。好きな方を選んでいいですよ。

身体からSNSを断ち切ることはできていないが、Xを見る頻度がかなり下がってきた。というか、今やってる他のSNSに比べてXは不快なコンテンツ(他人の愚痴、スパム、インプレゾンビ、トレンドのショッキングな事件のワード)がすぐ目に入りやすいし、その情報についての無責任なコメントにアクセスしやすい仕組みになっている気がする。嫌ですね。

Misskeyを主戦場にする時期がそろそろ訪れたのかもしれない。絵が上手い、と通りすがりの人にリアクションをいただいたり、noteをきっかけに知り合った山田唄さんという方に漫画や絵を褒められて嬉しかったのである。スパムアカウントもなければ、急に他人に突っかかって攻撃してくる人もいないのもグッド。

もちろんセンシティブなコンテンツはワンクッション用意する必要があるし、過激なものはBAN対象で冷ややかな目線を浴びやすい。だからこそ、自分自身の業というか毒性みたいなものを無毒化しよう、自分が出すものはあくまで人に見せられる範囲内に留めよう、という意識が芽生えてくるのである。棘が取れて牙が抜けて丸くなってもいいじゃないか。人間だもの。

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アマチュアの方の上手い絵を見ると、自分の実力と比較して自家中毒を起こしてしまう。鬱で認知がメチャクチャ歪んでしまっているので、自分の画力に自信が持てないし、自分の実力を客観視することもできなくなっている。noteもイラスト関係の記事がおすすめにやたら流れてくるし、noteも一旦封じようかな。苦しいぜ。

動くと死ぬから休んでるのに「休んでるならせめて別のベクトルで何か生産的な活動をやらないと……」というマインドになって動こうとしてしまう、というのもある。苦しい!苦しい!助けて!!

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瑞野晶という名前の人間は存在しない。そんな名前があるわけないからだ。いたとしても、その人は髪の色がピンクではないだろうし、髪型はツインテールでもないし、男性とは限らないし、メガネをかけているかどうかも不明瞭だ。でも、私はその名前を名乗って文章を綴っている。たまに猫足銀河という名前も混ざるけどね。

それでも私にとっては、そうやって「存在しない人間の名前を名乗る」という行為が一つの救いであったのだ。自分自身がどうしようもなく嫌いで、周りに好かれていたという記憶もなくて、私は自分を構成する何もかもが許せなくて、嫌で、何もかもを捨てたかった。そんな時に、インターネットという存在には大いに助けられた。なにしろ、嫌いな自分の本名を名乗らなくていいのである。自分が自分のために考えた名前を好きに名乗れるし、それまでは上にいるだけの存在だった大人と対等な立場で話し合える。思い出を忘れてしまっても過去ログを漁れば取り返せる。現実とインターネットは切り離されていたし、現実がどうでもいいものだった私はインターネットにのめり込んでいた。それらはたった5、6年前の話だ。

ここ数年で、インターネットと現実は距離感が急速に縮んだ。インターネットの嫌な出来事は現実に飛び火するし、現実の嫌な記録はインターネットで拡散し続ける。その反復を繰り返していくうちに、インターネットを見る人々の中には憎悪、怨嗟、悲観といった負の感情(あるいはそれを利用したビジネス)がどんどん深まって、見るに堪えない閉塞感をもたらしている。インターネットは匿名、インターネットは現実とは別世界。そういう一つの時代は終わったのだろう。

さて、インターネット論を散々語ったが、それはそれとして置いておいて、3月30日は私の誕生日である。ゴッホと同じ日だって去年に知った。なんか嬉しかった。過去の自分のことは散々このnoteに書き殴っているし、誕生日ぐらいはわざわざ思い返す必要もないだろう。めでたいわけでもないが、一つの区切りなのだから。今年で20歳を迎えました。酒と賭博と紫煙が合法的に利用できます。利用するかは不明。薬飲んでるし予測とか苦手だし喘息だし。子供の頃は雲の上のエリートって思ってたけど、20歳って実際なってみると全然大人じゃないな。自分が成長してないとも言えるかもしれないけど。車の免許も持ってないし、リアルアバターの髪は短く切ってるし、オシャレもしてないし、大学どころか高卒の資格もない。アニメも漫画もゲームもぜんぜん好きだし、むしろ自由にお金を使えるようになって、フィギュアとかぬいぐるみを買って更にのめり込んでいる節もある。子供の頃からずっと変わらずに絵も描くし、小説も書いている。

16歳から17歳の頃って、それが永遠に続くと思ってた。自分が20歳になるわけないって思っていたし、そこまで自分の人生が長持ちするとも考えていなかった。でも実際には、20歳になってしまったのだ。こりゃびっくり。いや、死なないように頑張ってきたから当たり前なんですけどね。

最近ずっと気分の波や体調不良に振り回されているが、19歳までの自分が溜め込んだツケを支払っていると言えるのかもしれない。ショッキングなものやグロテスクなものをいっぱい見たり絵を描いたり、エナジードリンクがぶ飲みとか気分がふにゃふにゃになる薬を一気飲みとかしてたし。そりゃ健康になるわけねえよな。不健全だった自分を精算しよう。2024年のテーマは「無毒化」です。炎が燃え上がる煉獄(ゲヘナ)というか、死臭が漂うゴミ溜めみたいな心の中を綺麗にしよう。そうしよう。あとお金も貯金しよう。アルバイトとかやってみようかな。できるかは知らないけど。

下書き放流終わり。おつかれさまでした。

さようなら。

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