刺激ジャンキー分析

世の中には2種類の人間がいる。刺激ジャンキーと安定保守だ。(アルピーANNジングル風)

私は完全に安定保守である。

刺激ジャンキーは、毎回の食事で新しいものを食べようとする。旅行に行ったらチェーン店には入らない。仕事でも新しいことをしたいと言っている。
安定保守は、常に同じ行動を繰り返す。休日は毎週同じサイクルで、出張に行ってもチェーン店に入る。

この違いを考えてみたい。

前提として、人は動物なので、基本的にパブロフの犬と同じだ。自分が知っているものにしか欲望はできない。(と思う)

知らない国の知らない文字の知らないものは食べたいとは思えない。
自分の経験において、Aという事象と快感情が結びついて初めて、報酬系が動き、「A=ベル」になるのだと思っている。

で、刺激ジャンキーと安定保守の違いは、無意識下での事象の抽象化能力の違いだと思う。
※意識下での能力は別な気はする。これを書かずにはいられないのは私のプライド。


刺激ジャンキーは過去の具体の経験を演繹し抽象化して「新しいこと=ベル」としてタグ付けしてるのだと思う。
一方で安定保守は「吉野家の牛丼=ベル」であって、極論すると「松屋の牛丼≠ベル」なのではないか。


もしくは、別の観点として、社会規範が内面化され過ぎている、という説がある。

今の社会は、新しいことにチャレンジして、常に成長して、ということを強く求めていて、幼い頃から教育されている。

それは社会が動くために都合がいいからというだけなのだが、それを強く内面化してしまった結果、労働とは別の局面においても「新しいものにチャレンジすること」が大事になってしまっているのではないか。
シンプルな報酬系ではなく、内発的動機づけと達成感に支配されているという。


一方で安定保守は、易きに流れ過ぎているという説もある。
ものすごく古典的な「単純接触効果」と「処理的流暢性理論」に支配されているから。

※処理的流暢性=情報処理が容易であると、対象への好意度が高まること。
と書いていて思ったが、やっぱり古典的な心理学の研究で、刺激ジャンキーを説明する簡単な理論がないことを見るに、最近の社会風潮の内面化こそが刺激ジャンキーの核な気がしてきた。


まぁさておき、
刺激ジャンキー=(報酬系における)具体→抽象化能力が高い
安定保守=(報酬系における)具体→抽象化能力が低い
と考えると、確かに中年期までの社会労働局面において、刺激ジャンキーは労働との相性が非常に良い。恋愛とも良いかもしれない。

ただし、抽象化能力が高いという前提に立つと、新しいことすらも抽象化され、無くなっていくのではないか。

つまり、老年期において、刺激ジャンキーに楽しいことは存在しなくなるのではないか。

具体的にいうと、もちろん世界には新しい食べ物は数あれど、「新しい食べ物を食べること」自体が、レイヤーを上げることで既知のものになってしまうのではないか。

一方で私(安定保守)は60歳でも牛丼を美味しく食べている自信がある。笑


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?