「水曜日のダウンタウン」のインタレスティングたけしと、「不適切にも程がある」の働き方回

水曜日のダウンタウンでのインタレスティングたけしの会。

事の発端は、昨年ドッキリ企画で、インタケがドッキリにかかる役として、出演したこと。
その際に、吃音がひどいインタケの様子がテレビで流れ、吃音協会がテレビで吃音をネタにしたことを問題視した。
それを受けて、インタケの思いと、番組制作陣の思いを伝えるべく、再度出演があった。

その中では、インタケは芸人であること。芸人だからこそ、コンプレックスを武器にするという救いがあること、そもそもインタケが芸人でありたいのだからそれを尊重すべきだということ、インタケが頑張っていることで、救われる人もいるだろう、ということ。そもそもインタケが面白くなれよ(※)という指摘、伊集院さんやナイツ塙、チャンス大城、インタケ、みんなが最高で、とても感動的だったし、見ている最中は、正直なところ吃音協会への反発を感じてしまっていた。

※この指摘を入れることのバランス感覚がすごすぎる。


自分だったら引退を考えるインタケにどういう風に言葉を伝えるかを、考えさせられる構造が、そうさせていたと思う。
気づかない内に、インタケに自分が語っていた。

「お前はただ吃音なだけで、法律も破ってないし、お前の大事な人も傷つけてない。その限りにおいて、目に見えていない誰かのマイナスを避けるために自分の幸せを手放すのは違うよ。まずはお前が幸せになることを頑張っていい。それだけを考えていいよ。そうする権利があるから。」

「確かに、お前が出ることで、いじめられる人がいるとかそういうこともあるのかもしれない。けど、それを言い出したら、お前が頑張っていることで、俺も頑張ろうって、救われる人も必ずいるよ。だからと言って、そいつらのために頑張らなあかんというつもりもなくて、ただただお前が幸せになることを手放したらあかんと思う。それだけを頑張る権利はみんなにあるよ。」

と語りかけていた。


後から考えてみると、
「インタケが出ることによって、吃音が笑われ、いじめを助長させるかもしれないこと」に対して、何の答えも出せていない。

法律を破らない限りにおいて、そこに悪意がない限りにおいて、自分の幸せを優先して良いんだ、関係ないんだ、と棚上げしただけである。



話は変わって、「不適切にも程がある」で、働き方改革がテーマの会があった。
令和の働き方改革では、一律で残業をやめましょう、と圧をかけるばっかりで、それは本当に一人一人を見ているのか?ちょっと残業してでも、企画書ぐらい見てくれてもいいじゃないか。という主張を仲里依紗が展開していた。(別にこれがドラマの主張というつもりはないし、この主張の成否によってドラマの価値は変わらない。ただ、こういう主張がドラマ内で展開されたことを言っている。)

この主張に関しては、ドラマを見ながら、明確にそうじゃないだろ!と思った。そうやって誰かが長時間働くことをその人の意思だからと言って許容してしまうと、そのプレッシャーで死んでしまう人がいるんだ。同調圧力に耐えられない、そういう弱い人のために、強い人がある程度のデメリットを受けてでもルールとして一律で救うべきなんじゃないかと思うのだ。

つまり、とある人の0→+1にするための仕組みによって、0→-1の人が出るとしたら、それは+1をやめたほうがいいのではないか、ということだ。
企画書を見てくれない、というむかつきは許容してもらう。そのことで、一律で労働時間が守られ、誰かの精神が守られるのだとしたら、企画書を見てもらうことなんて、犠牲にしてもいいと思うのだ。


と考えると、インタケ問題に関しても構造的には、インタケの幸せ(0→+1)を放棄してでも、誰かの最悪(誰かがいじめられること。0→-1)を避ける、ことを目指すべきだということになってしまう。


インタケの件に関しては、インタケの幸せを願い、
働き方の問題では、仲里依紗の企画書を見てほしい願いを退けたいと願うのは、矛盾してしまっている。

答えが出せない。

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