マガジン

最近の記事

音楽のライブ

昨日久しぶりに(最後のライブがいつだったか思い出せないぐらいに)音楽のライブに行ったので、これまでに行ったライブのことを思い出してみた。 つらつら書き出してみたが、しかし、どのライブが一番最後だったかは思い出せず。 これ以外にもコロナ禍(と言いながら、先週はじめてコロナ陽性になりました)にミツメとceroのライブをオンラインチケットを購入して観たり、YouTubeで中継のあったフジロックのceroや羊文学、一時間近いplentyやROTH BART BARONのライブ映像、ド

    • かりん月詠

      掲載誌からネットへの月詠全首掲載には思うところがあるのですが、2月号掲載分は来年度のかりん賞(一年間の月詠を連作として再構成して応募する)に含まれないのと、3月号を欠詠したのと、なによりデビュー号ということで、今回に限りネットに公開しようと思います。なお、最後の一首は碧野みちるへのオマージュです。 かりん月詠 2024年2月号掲載分 リュックからマフラーを出す勢いでぬいぐるみぽっこり顔を出す あたらしいトイレを大事にするように紀元前まで遡ろうか イチローと羽生結弦をイ

      • ご報告

        短歌結社「歌林の会」(通称「かりん」)に来年の1月から入会します。まだ一年間の会費を振り込んだだけなので正式な申し込みはこれからなのですが。 短歌をはじめて8年程が経ちましたが、これまではずっと無所属で活動してきました。無所属とはいえ、片道200円圏内に葉ね文庫があるのと、短歌シーンに関心があることから流動的ではあれ歌人との交流はあって、短歌の情報を得る上でそこまでの不便を感じてはこなかったです。ただ、流動的ということはシーンの流れに振り回されることでもあって、同世代や下の世

        • 解釈の迷う歌③

          3回目は、解釈に迷うことがネガティブさに繋がらない稀有な歌人である椛沢知世さんの歌について書いていきます。 椛沢さんの歌で最初におっ! となった歌。この歌は比較的わかりやすい方の歌で、書いてあることの景は想像可能だと思います。いわゆるカメラワーク的な視点にはなっていなくて、雷、窓ガラスと距離感がなくなった私が背中写しに見える、その感覚が短歌的な眼を無効化していながら、一方で、〈雷〉や〈窓ガラス〉のスケール感によって空間のデカさは失わない。絵画の画面の中にいるはずの〈私〉がそ

        マガジン

        • 短歌時事(2018~)
          20本
        • 歌集評(20202021)
          6本
        • 水沼朔太郎賞(2020)
          3本
        • 短歌ルチャリブレ(2020)
          5本
        • 一首評(2020)
          10本
        • 一首評(2019)
          17本

        記事

          解釈の迷う歌②

          今回は読み下し方に迷う歌について書いていきます。 頭から読んでいくと、白鷺の(5)ほうについてゆく(7)私に(5)つながる細い(7)水路を躓、の〈つ〉あたりで躓く。水路をつっ。より正確には、〈水路を〉の〈を〉の段階で来るはずのものが来ないような予感がある。そこから、戻って、白鷺のほうに-ついてゆく-私に-つながる、だった、か、と読み直す(そして、こっちの読み下しになると「わたくし」が「わたし」になる)。ただ、これも〈細い水路を躓きながら〉が下句らしい、ということを理解してか

          解釈の迷う歌②

          解釈の迷う歌①

          歌会などでときどき耳にする「上句が好きだったので票を入れました」のような部分点をわたしは短歌に認めていない。そのため、これまでは何よりもまず一首として完成していると自分で判断した歌しか基本的には引用したり言及したりしてこなかったのだけど、それを厳密に適用し過ぎるとなにも言えないと思う機会も増えてきたので、解釈は迷うがちょっと喋りたい歌についてつらつら書いていきたいと思う。 下句の〈アパートという楽しい楽器〉という表現から、一首は、壁の薄いアパート内の喧騒を決してネガティブに

          解釈の迷う歌①

          社会性の練習(二十四)

          一泊二日東京日記 六月中旬に一泊二日で東京に滞在した。生まれてはじめての東京ではあるが、わたしにとって今や東京はほとんど短歌と同義である。高校時代に通っていた高校の必要以上の国公立推しへの反発(で、実際に早稲田に進学した同級生もいた)と夏の甲子園の斎藤佑樹の活躍を見て、早稲田に行って神宮で六大学野球を観るとほざいていた時期もあるにはあった。 大阪ないし近畿圏の外に出るのが億劫だったというよりは新大阪とか関空とか梅田のバス乗り場とかそういうところまで行くのがどちらかというと

          社会性の練習(二十四)

          社会性の練習(二十三)

          「母」と「兄」を詠み込んだ短歌をまとめてみたのだが、まとめてみてこの一年「母」と「兄」を詠み込んだ短歌を作っていないことに思い当たる。ドラマの考察などで目にする「○○はここで物語から退場する」という表現が好きなのだが、それでいうと兄は退場したっぽい。〈冷凍機能がなくて一年アイスクリームを冷やせなかった兄の婚約〉。 一方、母は最近は比較的安定していて、老人ホームで暮らす祖母の見舞いと糖尿病の予防兼治療が中心の日々に退屈はしているようだが、ご飯に誘ってくれる知人もちらほらいるよう

          社会性の練習(二十三)

          社会性の練習(二十二)

          K-POP(ヨジャグル第4世代)が相対化されつつある。東京文フリで「ヨジャグル第4世代から5曲」を載せたフリペを配布してある程度書ききってしまったのと深夜勤務中にceroの新譜が配信されたのと、友人からMallboyzの新着動画のリンクが送られてきたのと、「にわのすなば」を観に行ったのと。ざっくりまとめると、親しみのすでにある抒情を思い出してしまった、ということなんだけど、逆にいうとやっぱり一年近くつづいたK-POPヨジャグル第4世代への関心はなにかしら未知の刺激であり続けた

          社会性の練習(二十二)

          社会性の練習(二十一)

          〈I got no time to lose〉の季節は STAYC のカムバックにより一気に吹き飛んだ。一聴したときにわかりにくいと感じたイントロ(なんだけど、何度か聴くと前作の雰囲気が仄かにある)や振り付け(鼻つまみ、ジャンプ、ハイタッチ……)、エンディングでの後方への駆け抜けなど、当初は不安になる要素がわりとたくさんあったが、ベストアクトだと思った映像の Sound Remasted 版の FANCHANT にすっかり元気付けられて〈Teddy Bear〉はスルメ曲(佐々

          社会性の練習(二十一)

          社会性の練習(二十)

          活字を日常的に読むきっかけになったのが、授業料免除の更新がかかった学校生活+模試とその延長線上での受験勉強だったせいか、長い文章、とりわけ小説を黙読できない。できないことにそれなりにコンプレックスもある。しかし、満身創痍だった受験勉強を乗り切るウルトラCは音読だった。音読は、眠気を打ち破るためのパワープレーだった。もちろん、その弊害は十数年経った現在にもあり、相変わらず、小説はほんとうに数えるほどの作家をモチベーションで一点突破しているような状況で、読んだ本を器用に批評の遡上

          社会性の練習(二十)

          社会性の練習(十九)

          連休と健康診断を挟んでの四回の夜勤が終わり、明日からまた十日程日勤に戻る。体力的には夜勤のほうが楽だけど、精神的には日勤のほうが良い。 今日は昨日届いた『米川千嘉子歌集』を読み出して、歌集の編集をして、蔦屋書店で「アンソロジスト vol.4」を買って、その足で通所先のアフターサポートに行ってきた。 たまたまYou Tubeに上がっていて観たら40分近くあったカムバックコレクション。歌集的な? 過去二回の現代短歌社賞の応募では、なんとなく300首だから三つの章に分け、それ

          社会性の練習(十九)

          社会性の練習(十八)

          休職していて受けられなかった健康診断を受診しに天満橋まで。天満の近くなのかと思ったら、中之島とかそっち(水都)のほうで面食らう。地上に出たら右側がかなり急なくだり坂で大学時代の人文地理学の講義を思い出す。しばらく歩くと、お洒落な行き止まりが見えてどこかと思ったら、大阪城公園の一角だった。 男女混合の健康診断で、手に取ったロッカー番号は69だった。ユニクロの茶色いインナー一枚で部屋とソファとを行き来する。身長と体重が2cm2kg普段より少なく気になってもう一度測ってもらうも同

          社会性の練習(十八)

          社会性の練習(十七)

          通院。行きの車内で大森静佳『ヘクタール』を再読する。初読時は、『カミーユ』で突き詰めた方法論(対象に憑依というより乗り掛かるように詠い上げる)を自分自身に180℃回転させて向かっていない点を作歌的な後退として捉えたが、再読してみて事態はかなり複雑だと思うようになった。そう思ったきっかけはたまたま直前に目を通した我妻俊樹誌上歌集「足の踏み場、象の墓場」に堂園昌彦がよせた解説にあった「短歌そのものの二次創作性」の話で、解説の終盤で、堂園は寺山と穂村の歌を挙げながら彼らの歌にある既

          社会性の練習(十七)

          社会性の練習(十六)

          昨晩、リムジンサービスの最新回でハニ(NewJeans)が出ているのをプレミアム配信の途中で知り、そこから見ていた。リムジンサービスといえば、レイ(IVE)が出ている回が大のお気に入りで、というか、わたしが好きなレイはこれまでも/これからもリムジンサービス上でのレイなのだけど、そのことをハニを見ていて思い出す。 わたしは自分ひとりで話を立ち上げることがほんとうに苦手で、基本的に何かに対する反応や想起というかたちでしか応えることができない。 いつも神崎川で済ませている川沿いの

          社会性の練習(十六)

          社会性の練習(十五)

          昨年末、29日30日あたりから精神的に不安定で、阪急梅田で551の豚まんをテイクアウトしたり、羊文学のライブDVDを黄昏時に流したり、休職前(ということは、働けてはいたが、しんどくなりつつあった時期)の行動を反復してしまっていて、個人的にけっこう危機的だったのだけど、有休含めた三連休明けの土曜日のすかすかの通勤電車で川谷絵音がadieuについて話している記事をたまたま目にし、帰りの同様にすかすかの車内で思い出して彼女の最新EPを聴いていたらそれで何かが吹っ切れて翌日の朝に数年

          社会性の練習(十五)