寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評⑥

寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評⑤|はしづめしほ|note(ノート)https://note.mu/ooeai/n/nb13899d9b8a7

〈三度目のベンチ〉二度目の〈ブランコ〉 水沼朔太郎③

もう三度目のベンチだと喋ることなくて鳩の正座を見ている/寺井奈緒美

橋爪さん、こんにちは。もう(ようやく)三度目の返信だな、と思って。喋ることはまだまだありそうですが。「だって、この歌集、「わたし」とか「あなた」の歌が圧倒的に少ない。数首といっていいくらい。」「人間自体ほとんど出てこない。人間を登場させずに、「モノ」を淡々と描く」「「モノ」を詠んだ短歌ばかりが並んでいると、すごくストレスフリーだな」という歌集全体についての印象ははじめ読んだときなるほど、と思ってたしかにこの歌集はいわゆるキャラクター的な〈わたし〉すら出てこなくて現実を大なり小なり反映させた人間関係のぎすぎすした感じはほとんどありませんね。それはたぶん作者がもっと広い世界を見ているからなのだろうと思うのですが、その流れでわたしはこの歌を思い出しました。

きっと君の欲しい部分のわたくしがスーパーに紫蘇買いに走らす

この歌、解釈がかなりむずかしくて〈君の欲しい部分のわたくし〉は相手が望んでいるとわたしが想像するわたし、ぐらいのニュアンスでもしかしたら現在のジェンダー(社会的な性役割)も念頭に置かれているかもしれない。だから、ものすごいストレスが背景にある歌として読めなくもない。なんだけど、そこでわたしが買いに行くものが〈紫蘇〉っていうのがなんかこう解放感があっていいなあと。加えて話せば、これは自作自演の歌なのかもしれなくて、そうすると自分で自分を〈買いに走らす〉ってすごくユーモラスだなと。ちょっと橋爪さんの書いてくれた「ストレスフリー」の文脈からはずれてるかもしれませんが「ストレスフリー」というワードからの連想でした。

ところで、前回までのわれわれのやりとりがネット上で公開されたわけですが、あらためて読み直してみたところひとつミスリードをしてしまったところがあったのでそこの話をさせてください。〈寂しさの演出だったブランコに蒲鉾のような雪あたたかし〉〈砂浜でさらわれていく唐揚げ棒のように少ない接点でした〉を驚きの比喩の例として挙げてしまったのですが、これらの歌の比喩は決して距離を伸ばすための比喩ではないのではないか、と思うようになりました。歌集に〈はためいていつまでも畳めずにいるビニールシートのような欲望〉〈厩舎窓ひとつひとつに干し草を与えるようにするポスティング〉という歌があって2首ともとても好きな歌なのですがこの2首の比喩は驚きというよりも適切さ(技術的に表現すればうまさ)に相当する比喩ですよね。で、先の蒲鉾の歌もその延長線上で読みたいな、と。つまり、〈蒲鉾のような雪〉は驚きを狙ったものではなくて適切な配置である。なんのためかは〈寂しさの演出〉のためだと思います。ピンク蒲鉾(?)の半円の上面に引かれているピンク色のライン、あるいはワンタン麺やミニどん兵衛に入っているミニ蒲鉾ってどこか寂しげだと思うんです。で、なんだろう、そういうある意味では堅実な視点というのもこの歌集の特徴のひとつではないのかな、と。

往復評もそろそろ10000字(!)が近づいてきました。「ストレスフリー」という論点を橋爪さんが出してくれて今回はそこからあれこれ書いてきたのですが、一方でこの歌集って短歌的な〈わたし〉の〈死〉ではないけれど〈死〉のにおいもすごく濃厚だと思うんです。そういうタイプの歌では〈次ページをめくったら死と書いてあるようブランコを折り返すとき〉〈戦前を生きるぼくらは目の前にボタンがあれば押してしまうね〉〈真っ黒な宇宙にぽつり浮かんでる胎児は9か6の形で〉あたりが好きだったのですが、『アーのようなカー』と〈死〉についてはどんな印象を持ってますか?

寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評⑦|はしづめしほ|note(ノート)https://note.mu/ooeai/n/nd5eaa66b508d

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