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「母の仮面が苦しいあなたへ」を読んで

数日前から、Twitter界隈で話題になっている金原ひとみさんの朝日新聞掲載の寄稿文。
あなたは読みましたか。

そもそも私は有料記事を読む資格を有していない。Twitterに流れてくるプレゼント記事を読むとき、自分で金を出していない後ろめたさと、そんな小さな出資すら削らねばならない哀しみがないまぜになるから、プレゼント記事を読むのに、一瞬の迷いと抵抗がある。

しかし、あまりにもたくさんの方が読んでと勧めてるから、どんなもんかと、話題に乗っかるような気持ちで、何気なく記事を開いた。そして一気に読んだ。冷静さと泥臭さが混在した圧倒的筆力に引っ張られ続けた。私と同じような人がこの世界にいて、出会ったことへの驚き、そして母親という仮面をつけ続けることに甘んじ、へらへらと生きてきた自分の情けなさ、自分を無駄にしてきた虚しさに衝撃を受け、傷ついてもいた。

私は周りのいわゆるママ友と、全く交わることのない歪みのようなものを感じてきた。子どものために生きられる人と、どうしても自我が顔を出す自分。私には母性が欠落していると思っていた。子を産み育てるために、仕事を捨てた自分。たくさんやりたい事や学びたいことが具体的にあったのに、子育てしながらやるほどの根性もなく、努力できない自分。私は結局何者にもなれず、子どもの母親として自分はなかったものとして生きるしかないと、諦めという形で、とうの昔に終わらせていた。

子どもの存在はかけがえのないものだ。私の人生に自分と同じくらい大切な生を感じる唯一無二の存在として、それは産まれた瞬間から続いている日常だ。しかし同時に私は、絶えず諦めながら、捨てながら生きてきた。どちらも日常の中で繰り返され、疲弊し、次第に麻痺していた。麻痺させないと生きていられなかった。

そんな自分を終わらせていた私に、金原ひとみさんの今回の文章が飛び込んできた。私の中の私が、今更ながら血を流す。自分を取り戻したいと湧き立っていた。それは決して、正しいレールに戻す作業ではなく、結果ダメなレールかもしれないけど、自分で選んだレールに、レール自体から作る作業から始めたいという熱である。

夫は、子育てに協力的な方だったと思う。私が20年前に大病した時にも、彼が踏ん張って支えてくれた。しかしながら、彼は私のもう一つの、私自身の人生には無関心だった。というより、母親の仮面はそのうち本当の顔になると信じていたのだろう。時代。そういうことだ。彼は悪くない。誰も悪者ではない。ただ、違っていたのだ。

来年、娘が社会人になる。そこでやっと私は自分を取り戻す作業を本格的にやれる気がする。仮面を外して、自分の意思で選び取る人生。間違いだらけだったら、それはそれ。自分の選んだものは、誰にも責任がない。私ひとりの責任。ひとりになる権利が、私にはある。

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