見出し画像

空き家銃砲店 第十六話 <小間>

階段を上がると小間がある。東側は小間が北にむかって一列に並び、西側は二間続きの座敷である。

東の小間はまず4畳ほどの畳の空間で、廊下とは襖で仕切られてはいるが、西側のお座敷への通路となっているため、独立した部屋とは呼べない。左の窓際には祖父の本棚、お座敷へと通じる右手の上は金色の地に墨絵で山が描かれた飾り戸がある。

この4畳を北に通り過ぎると隣は6畳、母が独身の頃の部屋となる。窓の壁の下に引き戸の棚が作られている。電灯は赤い布のチューリップのような形で愛らしい。窓は小さく、鉄の柵がみえる。ハガキ4枚ほどの大きさの冬の町の絵がかけられていた。母はこの絵が好きで二世帯住宅の自分の寝室に持ち込んだ。しかし母の荷物が全く残されていなかった。代わりに母たちが東京から引き揚げてきたときの私と妹の洋服が30年以上、押入れに入っていた。

一番奥の六畳は、昔はともかく、今は忘れられた物たちの居場所である。壁には明治時代に由一の娘に求婚したと家に伝わる地元出身の彫刻家、萩原碌山(おぎわらろくざん)の暗い海と船の絵。ハガキ2枚ほどの小さな絵で、向こうから送ってきたものだと言う。絵を学んでいたのは20代前半だというのでその頃だろう。

曾祖母のものは、嫁入りの際の総桐の長持ち(中には縮緬のふかふかの蒲団一組が入っていたが、母がごみとして捨てた。縮緬は高く売れるのにもったいない事をした。)、実家や友人の葉書を入れた箱、卒業証書。祖父の末弟恒男の小学校の時のスケッチブック。

狭い畳には蔵を壊した時の食器の空き箱たち。陶器類は二世帯住宅の食器棚に移されていたものもあれば、漆の汁椀、平椀、煮物椀、などは中身ごとされていた。古めかしい屏風。和とじの本が入った木箱。人形たちが入った祖母の飾り小タンス、祖母の高校卒業時の写真。「まあ、美人だったよ」と祖母が自分で言い妹が「じゃ絶世の美人だ」と茶化したものだが、確かに丸顔の人目をひく少女だった。

この部屋の見ものは押入れの襖だ。一文字一万円と言われた書家、一六居士(いちろくこじ)の漢詩が襖に仕立てられているのである。

二つの六畳の押入れには布団が20枚入っていた。あけてもあけてもほこり臭い布団が並んでいた。祖母の死後十年ほど経ち、生まれたばかりの長女を前だっこしながら私が二階から階段に放り投げ、業者さんが受け取って収集車に運んでくれ、一度に処分したのである。代金は両親持ち。

中に化学繊維の芯をいれて作り直した布団はまだ新しく軽かったが、身長150センチの祖母が自分にあわせて布団を小さく作り直したため、このままでは大人はだれも寝ることができず、地元の広報紙で貰い手を探したが誰もいなかった。

この小間にも母の推測が残っている。この小間は母たちが住む前に、廊下の外から鍵をかけ、内側から開けられないようにしてあったのではないか、というのである。なんのために、誰が。人目をはばかる人を閉じ込めてあったのか。

珍しい話ではない、関東大震災を経験した父方の祖母は言う。

「私が松本に(お嫁に)来た時、ご近所さんの二階から若い娘さんがのぞいているのが見えたんですよ。それで後で、そのお家の人に聞いたら『そんな娘はいない』って。それで別の人に聞いたら『親の言う通りに結婚しないので閉じ込められたんです。』って。驚きましたよ。」

祖母が驚いたのは、当時の慣例に逆らい親の言うとおりに結婚しなかった娘か、閉じ込めた親の方か。祖母は親の決めた相手と結婚し、家出未遂をしながらも添い遂げた。祖母が親か娘か、どちらに驚いたのか今では分からない。


おまけ

私が子供を産んでから見る家の夢は、どれも現実には見たことがないが、一族が住んでいた家だと分かるのだった。

ある夢では病気らしく若い娘が部屋で臥せっている。と場面が変わり、私が階段を上がり、二階の女性用と思われる桐の衣装箱を開けようとすると、すごい形相の女性が現れる。

ある夢では一族の話し合いが終わり、私が立ち去ろうとすると、離れて座っていた着物姿の女性がこっちへやってきて、悲しそうに「私の事どう伝わってる?」と聞く。一族はみな影のようにぼんやりとした姿なのに、この女性だけは顔も分かり、まだ若く、着物姿だとはっきり分かる。「伝わっていません」と答えると「そう」と悲しげに消えた。

令和3年7月3日の夢はもう少し進んでいる。私は穂高の家にいて、床に誰かが寝ていると思ったら起き上がってこちらを見た。30歳くらいで目と眉が印象的な美人だった。「この人死んでる」と思う。 美人は私に近寄ってくる、普通の人よりは派手な色の着物を着て、怖くはない。夢の中で私はこの美人さんを見たことがあって、「母のアルバムで見た」と言い、アルバムをめくっていると目覚めた。

母と関わりがある、ということで、この最後の人は曽祖父と結婚前からのお付き合いのあった人、金沢さんかもしれない。金沢さんは母が中学生の頃までは盆暮れに挨拶に来ていたというから、亡くなったのはその後になる。母は昭和22年生まれ(1947年)だから、亡くなったのは母17歳あたり、1962年とすると60年近く経っている。成仏できたのだろうか。


1日1にっこり。 読みやすくて、ほっこり、にっこり、にやり、とする記事を書きつづける原動力になります。よろしくお願いします。