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空き家銃砲店 第一話 <一族>

長野県の真ん中あたり、観光でにぎわう市にその家はある。明治につくり酒屋の茶室として建てられた家、それがこの物語の主人公だ。私や一族は家を飾る一部にすぎない。

まず登場するのは、万エ門(まんえもん)。住んでいた土地で火事を起こし、当時田んぼだった今の場所へ引っ越し、家を建てたという。仏壇には焼けた際に持ち出したと思われるすすけた位牌があり、墓地にはその時の子供と思われる墓石がいくつも並んでいる。万エ門より古いと思われる夫婦の墓も一基あるが、誰のか分かっていない。

万エ門夫婦の墓に刻まれた文によると、明治3年(1870年)に妻が、翌年(1871年)に万エ門が世を去ったらしい。万エ門と妻の跡取り息子が菊松(きくまつ)。

菊松夫婦の墓は明治17年(1884年)7月に建てられた。夫婦の墓には安曇野市の自由民権活動家、松澤求策(まつざわきゅうさく)の漢文が、三澤彦一の文字で刻まれている。松沢はその3年後32歳で他界している。大名墓なのは武士の時代が終わった事と、次の代の人間に商才があったらである。

菊松夫婦には子供がなく、後を継いだのは由一(よしいち)、親戚の三澤氏からきた養子だった。由一は商売の才覚があったと言う。家付き娘と結婚し、つくり酒屋は隆盛を極め、神社の鳥居に自分の名前が大きく刻まれるほど寄進し、大きな家を建て、男の子や女の子も何人もいた。当然自分の墓も生前に用意したものか、漢文が刻まれている。今は誰も読まないが。

由一は後に銃砲店となる茶室を建築した人物だと思われる。茶室の建築は明治28年(1895年)になる。菊松の墓がたち、約10年後だ。

由一には娘もいて分家したらしいが、母の子供の頃には親戚付き合いはなかった。人の話によれば<年をとっても色白できれいなばあちゃん>だったという。そういえば祖父の兄弟にも背が高く人目をひく弟がいたらしい。恋愛結婚したという。後にこの家を取り壊すことになった時、大きすぎる座卓、大きすぎる食器棚、たくさんの婚礼食器が蔵に残された。

家付き娘だった由一の妻はどういう人物だったかは分からないが、夫の由一と別々に肖像画が残されている。黒紋付きを着た少しやせた横顔だ。今の葬儀写真替わりだろうか。

由一の長男の友一(ともいち)は四十を過ぎて結婚することになる。相手は三郷の出身の娘で身分違いだと反対され、出産数日前にようやく入籍し、数日後に赤子を生む。だが男児はわずが10日あまりで死んでしまう。一年後彼女は離縁され、すぐにこの世を去ったと伝わる。自殺だった。「この家に男の子が生まれないように」と遺書を残して。

一方、友一は2年もまたずに再婚する。後妻との子どもができる前に、当の本人、友一が死ぬ。大正8年(1919年)、44歳だった。後妻は友一死後、三男とねんごろになっているところを三男の妻に見つかり、分家することになる。後妻はのちに養子をとり、この時の財産分けで道のない土地が生まれたが、令和3年(2020年)に解決した。


おかゆ


そして兄友一の後を継いだ弟が国俊(くにとし)。元の名前は三太(さんた)だったと言うから次男がいたらしい。

国俊は議員になり、詩や俳句、茶道(裏千家)をたしなんだ。明治45年(1912年)遠足の帰りに近道をしようと烏川(からすがわ)を渡り流された子供たちのために、昭和7年(1932年)に哀悼碑を建てた際、哀悼詩を作ったという町長だった可能性があるが、本当のところは分からない。息子の英男と仲が悪かったため、銀行を作ろうとして失敗して家を傾けた張本人、道楽者扱いされている。

事実、国俊は若いころから穂高の遊郭に通い、10歳年下の長野県北部の須坂から教師だったという妻、としを迎えても、結婚前からの仲だった娘がいた。名前は伝わっていないが、金沢姓だという。身長は150センチほどで小柄だった。身よりはなかったと聞く。いつの間にか芸者をやめさせ、町内の少し離れた場所に住まわせていた。正妻が亡くなった後、一年ほどして国俊が倒れたのも別宅だと言う。国俊と金沢さんの間に子どもは生まれず、養子の話しもあったがついに迎えなかった。

国俊の死後、金沢さんの面倒を見たのは、国俊の長男、明治43年(1910年)生まれの英男(ひでお)である。

金沢さんが養子を迎えなかったことをとしが感謝していたからとも言われるが本当のことは分からない。

英男が金沢さんをどこに埋葬したのかわかっていない。母によると、ある日連絡が来て、出かけて行ったという。一族の墓地には入れず、痕跡はわずかに残るだけだ。

平成になり、金沢さんの使っていた三味線が西の土蔵から見つかった。ほこりが降り積もっていたが、象牙のバチと駒、金のさわりに黒檀の胴が可愛い袋に入っていた。

一方、国俊の妻、としは夫の女性問題や金銭問題に巻き込まれながらも、英男を頭(かしら)に男児を4人産む。としは「お義父さんが(由一)が生きていた時が一番幸せでした」といい、「私が生きてた痕跡を残したくない」と言い残したため遺影は残っていない。母の従弟は「厳しくておっかなかった」と言う。

三男の嫁、としのおかげで四人の男児の孫に恵まれた由一は77才で、掛け軸で自画像を描かせている。とし自身は自分が末っ子を産んでまもなく、不幸にして世を去った兄嫁のこと気にしていたらしく、晩年はお祈り三昧だったらしい。嫁である英男の妻、あや子に「私がお祈りしてるから大丈夫よ」と語ったそうだが、あや子は男児に恵まれず「ちっとも大丈夫じゃなかった」と母に語った。

1910年(明治43年)生まれの英男にはいろいろな逸話が残っている。生まれたときに旅のお坊さんがきて、人相を見て「没落した家を興す相だ」と言われたが、地主であり、つくり酒屋であったため皆が信じなかった。その後、にごり酒<穂高正宗>が腐ったせいか、道楽が過ぎたのか、確かに没落することになる。

英男は没落したことで人間不信の一面があったらしい。冷たいエピソードも残されているが、上田から嫁いだ妻あや子を守り、愛人がいない夫となる。

英男は地元で育たず、母の実家須坂で学校を卒業し、東京に進学した。火薬の免許を取り、穂高銃砲店を開業し、黒部ダムの開発にダイナマイトをおさめ、予言通り家を建て直した。

不要な家財は公民館で売り、大きな家を壊し、土地を貸し出した。茶室を家に作り替え、妻と中学一年生になった娘と住み始めた。娘が東京に進学するといつの間にか町長選挙にでて、破れたりした。成人した娘が婿を取り、孫の私と妹が生まれて、近所に家を建てるまでの間、母はこの家に住むことになり、私とこの家の付き合いが始まる。この3か月がすべてのはじまりだ。



おまけ

時は移ろい平成、穂高を離れた私は25年以上に渡り、何度も一族とその家にまつわる夢を見るようになる。

一番最初に見た夢は、そう、平成に入ってすぐ、「100才まで生きる」と占い師にいわれたのを信じた祖母あや子が、70を過ぎて二世帯住宅を建てた時期だ。

最初の夢では暗い場所に車座になった人々がぼそぼそ話しているのだか、顔も姿もよく分からない。 次の夢では、車座の人々は少しいらだっているようだった。

最後の夢では、車座の人々はかなり怒っていた。と急に振り返り、話し合いをみている私の方に向かってきた。起きてからも動悸がして、母に連絡して様子を聞いてみたが特に変わったこともないと言う。仕方ないので次の休みに帰省してみたら、旧宅の銃砲店に仏具がいくつか残されていた。直感的に「これか」と思い、新宅のお仏壇のそばに置いた。

それからは車座の人々が襲い掛かってくる夢はほぼなくなったが、たまに出てくるようになった。夢では影ではないのだが、起きると顔は思い出すことはできない。この世では見たこともないのに夢では<久しぶりに会った親戚>だし、彼らとどこかの山の中のお墓参りにいったり、一緒に本家に遊びに行ったりしている。

#創作大賞2022

全21話


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