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空き家銃砲店 第十九話 <裏庭>

コインに表と裏があるように、日本庭園式の庭を表とするなら、<裏>と呼ばれる庭があった。

<裏>には池の左横で牡丹の築山(つきやま)の右にある閂(かんぬき、横木をわたすことによって扉があかないようにする仕組み)のある木の門か、紫木蓮の隣の金属の扉から行くことができる。

<裏>には竹と羊歯(しだ)と雑木がしげり、タラや山椒の木、かつては黒スグリや赤い実、いかにも素人栽培の葡萄が植わっていた。他には広い家だった頃から使っていた井戸、西の土蔵、比較的新しい外観の倉庫があった。

蔵と家の間の通路には<物を捨てられない住人>が住む敷地にふさわしく、家を改築した時に出たガラ、植木鉢や瀬戸物のかけらが何十年にわたって放り出されていた。

土蔵の扉は重い。一枚板の引き戸で、鉄の縦金具が飾りと防犯を兼ねていた。中にはざるや支柱、鍬(くわ)、シャベル、草刈機といった小型農器具から公民館にあるような大きなやかん、陶器の急須、紺に白い水玉の昭和の湯のみはうんざりするほどダンボールにつめてあった。大きい籐の椅子は4脚。

自営の両親が押し込んだショーケース、棚、看板。曾祖母が使っていた漆の蒔絵の煙草盆。三味線。今となっては誰かも分からない人々が、伊藤博文を囲んで納まっている額装された写真。薄暗い中にあきれるほどあった。

すべてのものはある時に慌てて詰められ、その後見返されないといった風情で、屋根には駕籠(かご)までのっていた。曽祖父はあれに乗って遊郭まで行ったのだろうか。

土蔵と背中合わせに新しい倉庫があった。西の土蔵の半分くらいの大きさで、南東の蔵と同じかやや大きかったように思う。

銃の関係か、こちらの倉庫にはシャッターと中の引き戸に鍵がそれぞれついて私が中を見たがっても、「開けるのが大変なんだよ」と祖母はあけてくれなかったし、丁度開け閉めしているときにいきあってもそっけなかった。祖母の死後、初めて開けたかもしれない。

倉庫には木の引き戸の大きな食器棚、別の棚、これまたよく分からない時代の地図、戦争中に敬礼すべきだった写真、もろもろのものが入っていた。戦時と言えば穂高にも不発弾が落ちたという。1942年、飛行機のB29を竹槍で落とす全国民の義務となった訓練、通常<竹槍訓練>のとき「向こうは飛行機なのに勝てっこない」と発言した人がいて、一緒に参加していた家族があわてて「そんなこと言っちゃいけない」とたしなめたそうだ。女物ものと思われる着物も二三枚、紙袋に入って床に置いてあった。

開け閉めのシャッターの音が響く上、道にした場所にあったので、後片付けをしていると通りかかりの人や、ご近所さんが見に来るのであまりはかどらなかった。西の土蔵と倉庫はのんびり片づけようと思ったら、台風で屋根が落ち、それまでに取り出してあった一部のものを残して、まるごと本物のごみとなった。

<裏>のどこかに、祖父の猟犬マックとエルザ、母のための白いヤギ(母は戦後まもなくの生まれなので、牛乳の代わりにヤギを飼ってミルクを飲んでいた。)、数知れぬ魚、わたしたち姉妹の三匹の犬が眠っているはずだ。

猟犬のマックとエルザは利口で、片方が山で動けなくなった祖父に付き添い、もう一方は家まで知らせに来たと言う。その後マックが死に、エルザは間違って祖父に足を撃たれ、祖父は猟をやめた。

私が遊びに来るようになった時、エルザとマックはすでにおらず、エサの器は石だったため残されたが、アサリのカラが入っていた。「どうしてここに貝があるの」と聞くと「食べたから、ここに捨てたんだよ。ほかにどうするんだい」。もと手水鉢のエサ皿をみながら祖母は答えた。

この時は知らなかったが、<石は記憶する>と言われる。それが本当なら手水鉢から犬のエサいれ、アサリのカラ入れになったのはさぞむなしかろう。そのむなしさが私を呼び止めたのかもしれない。今は骨董屋さんで新しい持ち主を探しているはずだ。

当時、紙ごみは庭の小型焼却炉で焼き、生ごみは肥料にしていたが、貝はどちらにも当てはまらず、捨て方が分からなかったらしい。祖母は庭の草むしりやこまごまとしたことを人に頼んでいたはずだが、さすがにゴミ捨てまでには手が回らなかったようだ。


おまけ

井戸には蓋がされ、一見分からないようになっている。井戸には神様が宿ると言うが、神様はどうされているのだろうか。


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